トニー・レビンによるこの講演は、1996年9月27日、ニューヨーク、ロチェスターにあるイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)のキルボーン・ホールで開催された、「ポピュラー音楽とカノン:境界の再考」と題するシンポジウム(クラシック音楽家と現代音楽の状況との関係を探求する)で行われたものである。 世界中を飛び回って飛行機、バス、ホテルや控え室でこの公演の原稿を書きながら、予定の音楽の話より自己紹介のほうが長くなるのではないかと不安になりました。結局のところ、私は演奏家であって学者ではないし、私がこれまで公の場で演奏してきた時間から相当長い自己紹介はできそうだけど、人前で話をする役にはあまり立ちません。でも、私の両親の家の壁にはイーストマン音楽学校の卒業証書が貼ってあることを思い出して勇気がわいてきました。証書には「文学士」とあり、ベースがなくても、何とかわたしでも自分を表現できるだろうと暗示してくれているのです。 1968年に卒業して以来、ロチェスターに戻ってきたのは戦争記念館やレッド・クリーク・クラブ、オーディトリアム・シアターなどでコンサートがあったときだけで、ここでは演奏したことはありません。いつも日帰りで、ここをゆっくり訪ねる時間はなかったのですが、たまにメインホールにしばらく座っていることはありました。そして学校へと行き来する人々を眺めたりしました。私は在学中にそのやり方をきちんと会得したんです。それを「ホールに座る人のおつとめ」と呼んでいました。もうひとつ懐かしい伝統がここキルボーン・ホールに受け継がれていると知って嬉しいですね。いいかげんな生徒のリサイタルでは、期待したほどの出来でなかった場合に目立たずに出られるよう、通路側の席に座るというもので、例の独特の急ぎ足で、大事な授業かリハーサルがあって最後まで聴けないのが残念だというそぶりをすることがコツなのです。これから今日の話の概要を言いますから、通路側の席の方は出て行く頃合いの参考にしてください。 今日は、演奏家がクラシックから他のジャンルへ転向するとはどういうことかお話ししようと思います。これについては経験豊富なので。私がやってきたのは、ジャズ、いろいろなタイプのロック、アルバム、コマーシャルや映画向けのスタジオ演奏のほかワールド・ミュージックもあります。 私はベーシストとしてやってきたので、リズム楽器の演奏者と相通ずる部分は大きいのですが、リズム楽器に限らず、大概の楽器にも共通する問題に踏み込んでみようと思います。でも残念ながらトロンボーン奏者については詳しいお話はできません。クラシックからの転向について、様々な面からアプローチするつもりです。技術、美学、心理、ビジネス等。ああ、ビジネス! レコード産業と産業界のポピュラー音楽への影響にも触れます。ラジオ業界のことも。ビジネスは専門外ですが、私の知っていることが役に立たないとも限りません。時間かせぎにスタジオ録音やロードでの経験も少しお話しできるかもしれません。もちろん、ただの経験談には終わらせないつもりです。最後に質問を受けたいと思います。 イーストマンに入学したとき、私はクラシックのベース以外はまったく演奏していませんでした。もちろん大概のベース奏者と同様、ジャズやフォークに手を染めたことは少しありました。4年後ロチェスター・フィルに入るとジャズを演奏し、クラブにも出ながら、ロックをやりたいと思っていました。オーケストラを続ける気はありませんでした。私は運がよかったと思っています。若いときにオーケストラで経験を積んで、遅からずしてそんな決心ができたので。後にも、優れた演奏家に会ったり共演したりする幸運に恵まれたし、ニューヨークに移ったのは、まだそこに仕事がたくさんあるときでした。結局、価値があると私が思った音楽を演奏するアーティストのレコード製作にお呼びがかかることになりました。その数年後には、ニューヨークでセッションするよりロードでライブ演奏をすることに決めました。ニューヨークにまだスタジオ演奏の仕事が残っていた頃の話ですけどね。そしてキング・クリムゾンのメンバーになれたことは、やはり幸運としか言いようがありません。このバンドにはやりたい音楽をやれる自由があるのです。後でお話しますが、そんな自由はいつも保証されるわけではありません。 私が使う言葉の定義を少ししておきましょう。みなさん全員がいつも練習室にいて時折ラジオでバッハ以外の曲を聴くというわけではないでしょうから。「ポピュラー音楽」という言葉はこの講演会のタイトルにもありますが、私はクラシック以外の、ついでに私のも除いて、あらゆる音楽を「ポピュラー音楽」と定義します。もちろん、多くの愛好家がいますし、レコードも売れているという意味では、クラシックもpopular(人気がある)です。私の大ざっばな定義では、ジャズやポルカ、シタール・ラガもポピュラー音楽に含めます。「ポップス」とロックの違いを知らない(または気にしない)方もいらっしゃるでしょうが、我々演奏者にとっては歴然とした違いがあります。「ポップス」はもともと「ポピュラー」を縮めた表現ですが、それはラジオでかかるたわいない曲のことで、たとえロックのスタイルであっても同じことです。ロックにはたくさんのスタイルがあります。普通はギターがあり、歌があり、大音響で演奏されます。つまり、これは大音響でやらなくてはならないという気持ちを伝える入念に仕組まれたサウンドなのです。ジャズについてはみなさんご存じですよね。私は聴けばそれとわかりますが定義はできないので。ワールド・ミュージックは魅力的なジャンルですね。このセミナーで大いに語られると聞いています。正式な定義は知りませんが、私の経験では、西洋音楽が混ざっていても、実際混ざっていることはよくあるのですが、西洋以外の文化圏の音楽で、民族的ルーツを強く持っているものです。ドラマーズ・オブ・ブルンジを相手にツアーをしたことがありますが、彼らはブルンジでずっと使ってきたのと同じ土地のドラムを演奏します。ユッスー・ンドュールという人気のあるセネガルの歌手ともコンサートをしたことがありますが、そのバンドにはトーキングドラム奏者が2人いて西洋のドラムも持っているのです。ベーシストは私と同じブランドのエレキベースを弾いています。
定義の話に戻りましょう。私は「リズム奏者」とか「リズム・セクション」という言葉をよく使いますが、ベース、ドラム、キーボード、ギター奏者のことです。さて、音楽のジャンルが変わるとどうなるか、技術面から見てみましょう。クラシックは、リハーサルから始まります。ある決まった時刻から始まることになっていて、実際その時間に始まり、休憩があり、終了時刻があります。こういったことはジャズではきわめてまれであり、ロックにいたっては皆無です。特に休憩とは無縁です。ニューヨークでスタジオの仕事をやっていたときのことですが、弦楽奏者がいるとセッションはまったく違ったものになることがわかりました。彼らは1時間ごとに休憩を求め、実際取っていました。我々リズム奏者は今何をやっているかさえほとんどわかっていない状態でした。リズム奏者だけのレコーディングでは、組合規定があっても、予定を決めて休憩を取ることなど決してありませんでした。もちろん、このリズム奏者が、遅刻はする(弦楽ではめったにありません)、昼食はとる、電話をかけると言って中断する、何も言わずにしばらくいなくなる、あげくの果てに、はなから来ないこともありました。では、私はもっと計画通りに進む弦楽とのセッションが好きだったかというと、そうでもありません。私がニューヨークで演奏した最初のバンドの中にホワイト・エレファントというバンドがあって、いわゆる「リハーサルバンド」でした。つまり、吹奏楽奏者がたくさんいて、夜、仕事が全部終わった後集まるんです。彼らが「吹ける」ように。(「吹く」ことの定義は必要ないですね。)リハーサルは9時か10時に予定されているけど、実際始まるのは早くても真夜中、午前2時、3時になることもありました。純朴だった私は毎晩時間通りに人って、他の15人のうち誰か現れるのをひとりで待っていました。これも勉強のうちでした。これはオーケストラのリハーサルではないのだと。やっとライブの仕事を始めた時も、事情はさして変わらず、相変わらず何時間も遅れて開始していました。 クラシックが他より整った体勢を持っていることは、曲や演奏方法にも反映されています。ホワイト・エレファントがリハーサルを始めるのが遅いことは申し上げましたね。彼らはダウン・ビートなしで曲さえ選ばずに始めるのです。奏者はスタジオに入ったときどんな曲をやっていようと構わずに加わって、やがておなじみの曲ができあがります。すると、次は曲のなかで、ひたすらリピートする「A」から「B」に移るというまるで法律みたいに複雑な冒険が起こるのですが、これが、だれが声をかけるでもなく、誰かがコンサートマスターになって合図するわけでもない。実際、正常な神経の人間にはつらいバンドだったでしょうね。
どんな曲をやるのか、またどんな構成でやるかあらかじめ決めないで演奏するバンドも確かにあります。一度、キング・クリムゾンのギタリストであるエイドリアン・ブリューにロバート・フリップのソロの後、始めるタイミングをどうやって知るのかと尋ねたことがあります。「ロバートを見てると、ある風に顔をしかめて、手がネックの先までいってそれ以上いけなくなる、それでわかるんだ。」と彼は言っていました。
ある意味ではもっとクラシックに類似しているが、クラシックの理想からはもっと離れているのがロックでしょう。大概のバンドは同じ旋律になるように演奏し、演奏ごとに解釈を変えようとしたりしません。普通はソロの即興がありますが、ジャズほどの意外性はめったにありません。理想のロック演奏とは何だろうか。そうだな、きっと、格好良く、大きなサウンドで、何でもありで、女の子をしびれさせ、できるだけ人気を得ることなんでしょう。
ウェリントン・ニュージーランド・イヴニング・ポスト紙より 話をもとに戻しましょう。ジャンルを転向して、それに順応していくというのは大変なことです。自分のやってきた演奏方法が理想とは見なされないですからね。しかし、ありがたいことに、成功に終わったショーでの喜びというものにはジャンルの違いはなく、境界はないのです。 演奏家はどうやればこのような変化にいちばんうまく適応できるのでしょうか。残念ながらアドバイスできるようなことはありません。ただ、計画性の欠如への不満は、音楽がうまくいって我慢が報われると、ずいぶん解消されました。これは自分なりの対応法ですが、今でも使っています。皆さんのなかでクラシックをしばらくやった方は自分なりの対応法を作り上げているだろうと思います。また、計画性のある状況に向いている人もいれば、反対の人もいます。できれば自分に向いたジャンルにおさまれるといいですね。
多くの楽器がそうですが、クラシックからの転向は電気を使う楽器への転向を意味します。 もちろん、クラシックからの転向に伴う大きな相違は音量の大きさです。1812番の開始曲が耳に痛かったように思っていた頃が懐かしいです。悲しいかな、私は聴力がずいぶん衰えてしまいました。きっとロック・ミュージシャンや観客の多くもそうでしょう。耳のことではずっと、私は仕事の仲間より気をつけてきたのですがね。何年も前だけど、高い音が聞こえなくなって、チューニングがやりにくくなったと気づいた後、耳栓をつけるようになりました。ここ何年もずっとドラムやアンプやPAのそばにいるので、用心もむなしく、私の耳はすっかり悪くなってしまいました。(後ほどの質疑応答には、このことをお忘れにならないようお願いします。)
ロック・コンサートの音量をしぽることはできません。観客は大音量のパワーに慣れているし、音量を下げたコンサートは好まないでしょう。私が一緒に演奏するバンドのなかにはステージの音量を下げようとしているところもあります。奏者がみなその気になれば容易に実現します。観客に奏者の2倍の音量を聴かせて奏者とは別世界にすればいいのです。ピーター・ガブリエルのバンドはこれに成功しました。何年も音量のレペルを上げすぎのステージをやってきたのですが、耳につけるモニターに切り替えたのです。奏者はそれぞれミキシングと音量のレペルを調整し、ステージのアンプは音量は下げておきます。最近このモニターによる方法が増えているようです。いい傾向です。ただ大きな欠点は、個々のモニター音量がお互いにわからないので適当な音量を教えあうことなく、知らない間に自分の聴力を完全に失ってしまう可能性があることです。コンサートで無料で耳栓を配布するバンドもあると聴いています。これも正しい傾向ですね。 生み出され続けているポピュラー音楽に機械が与えた影響は大きく、そのため、ポピュラー音楽は20年前とは大きく様変わりしています。ドラム・マシンが80年代に流行し、続いて、ベース、ピアノのシンセが出、弦楽や吹奏もシンセ化され、バンド、セッション、映画、コマーシャルの楽器演奏全体が変わりました。以前はスタジオでひっばりだこだった職人タイプの奏者の仕事が減りました。要求される演奏のタイプも変わりました。アルバム(もちろん、現在はCDですけど)製作について、プロデューサーは、以前生身の人間を相手にしていた頃よりずっとパートをコントロールしやすいと気づきました。ドラム・マシンは、音があまりよくなかった頃からよく使われていました。やがて改良されて本物のドラムのような音になったけれど、やはり人間のドラマーのようではありません。興味深いことですが、こういう機械も、本物らしくするために、結局はランダムな幅をもたせてプログラムしなくてはならなかったのです。この技術が好きなドラマーはドラム演奏でなく、ドラマーのような音を出すドラム・マシンのプログラムの専門家になりました。機械のような正確さと信頼性で人気を得たドラマー(やベーシスト)もいましが、彼らがプロデューサーに提供するのは機械的技術であって、我々昔ながらの奏者のように、パートについて問いつめたり、議論したりしません。我々にとっては意味のあるパー卜の演奏が極めて重要なのですが。(リッチー・へイウッドとリトル・フィート、ジョン・ロビンソンとスティーブ・ウィンウッドのセッションの話) ドラム・シンセの後に出たベース・シンセも次第に普及しています。もちろん、音そのものはすぐにすたれてしまいますが、それでも、プロデューサーには魅力的なしろものです。私や私のようなベーシストは、スタジオで、シンセのデモパートを再生してくれとか、合わせて弾いてくれと頼まれることが増えてきました。シンセ音をまねろと言われることもよくあります。白状すると、そういう時には「そういうパートが欲しいのなら何故わたしを呼んだのか?」と強く言い返したこともあります。まあこれは、私の経験と評価を楯にした言い方ではあります。(結果はさまざまでした。)返答がどうあれ、現実は私が必要だったのではなく、ただ何らかの理由で、シンセ音がどんなものか確認するため本物の奏者の音を聞いてみたかっただけでした。(レコード製作をすべてシンセでやって、生きた奏者を使わないプロデューサーに仕事をもらうとはどういうことか?) 今では、弦楽、吹奏、ベース、個々のドラムのサンプル音があって、至る所でレコードやコマーシャルの製作に使われているのは、ご存じの通りです。私の知っているドラマーやベーシストのなかには、シンセで自分のディスクを作らないかと声をかけられた人もいます。長い音、短い音を弾いて、フィルやビートを演奏します。そしてその記録された音だけを使って、シンセ・プレイヤーが奏者なしで、奏者のサウンドや感情さえとらえたレコードを作るのです。これは現実にもう行われています。皆さんのなかからもご賛同が得られると思いますが、私は、優れた楽器奏者の価値は決して消えないと思っています。確かにそれはここ何年間も振り向かれていませんが、少しずつ見直されてきています。今日のシンセ・サウンドはすべてみるみるうちに古びていくでしょう。新鮮な時には気づかない微妙な音の違いが、1、2年経つと古くさくなる原因かもしれません。奏者のパートのサンプルは確かに彼の演奏したものには違いありませんが、奏者を取り巻く音楽に対する反応がサンプルには欠けています。これこそ奏者の創造性の本質であり、ありがたいことに、そのサンプルには不可能です。
私は次のような考え方の人間でもあります。ベース奏者が生み出す音には固有のベースらしさがあり、キーボーディストであれ、ギタリストであれ、他のひとがベースのパートを演奏しても欠けている何かがあるのです。ドラムはもっとその傾向が強いです。弦楽のシンセ音、サンプル音にはあえて触れなくてもいいでしょう。
音楽のスタイルごとの音楽的な違いについて少しお話ししましょう。クラシックからの転向で最大の挑戦は、ビートを刻むことだと思いました。これはリズム奏者にしか当てはまりませんが、お話しする価値はあると思います。
オーケストラ演奏における拍子のバリエーションのもうひとつの例はウィンナ・ワルツです。二拍目を早めに打つウィンナ・スタイルで演奏したことがありますか。ウィーンの人には簡単でしょうが、我々には並大抵のことではありません。同様に、リズム奏者、スタジオの弦楽奏者にとっても、早め、あるいは遅めにビートを打つのに慣れるのは大変なことだと考えられます。弦楽奏者も含めましたが、彼らは通常リズムを取りしきることは要求されませんが、スタジオでは、映画やコマーシャルのために、違った役割が求められます。つまり、弦楽がダウンビートにならなくてはならないのです。ほんの一瞬も遅れてはいけません。リーダーはすぐに指摘するでしょう、奏者一人ひとりが一瞬早めに始めなければならないのです。コーヒーを一杯(飲んだ方が良さそうな話ですよね)。 レコード業界、著作権、契約、弁護士などについて詳しいことを知りたい方にはお勧めの本があります。ドナルド・パスマンの「音楽ビジネスについて、これだけ知っていれば大丈夫」(All You Need to know about the Music Business)です。
ラジオの話をしましょう。ここアメリカでのラジオの影響は大変なものです。レコード店でどんな曲が売れるか、従って、どんな曲をレコード会社が出そうとするか、ひいてはアメリカのほとんどのミュージシャンがどんな曲を作ろうとするか、を左右します。これは、ラジオより音楽雑誌の影響が大きいイギリスとは違う点です。(ついでながら、イギリスの雑誌は、ピーター・ガブリエル、クリムゾンほか「古い」ものは何でも嫌っています。彼らの基準では数ケ月たったものは「古い」のです)ラジオの話に戻りましょう。私はラジオやその音楽の分類の仕方にはあまり興味がないのですが、今日の講演のために、少し調査を行ったので、ラジオ局、局のマネージャー、ラジオネットワークが使う分類をいくつかご紹介できます。レコード会社は各局に曲を、その分類の仕方に合う曲だけを提供しようと懸命になっていることは覚えておいでですね。もしあなたの曲がある分類に合わなかったら、…実際私の曲はどの分類にも合わないのですが、皆さんが私の曲を聞いたことがないのはそのためでしょう。
音楽の形式の違いによる価値の違いについて、個人的には、聴く音楽の種類によって音楽を判断することはありません。私はバッハを聴くのが好きですが、クラシックでなくても価値ある音楽なら、他にも多くを楽しんで聴きます。演奏するときは、常に演奏中の作品全体の一部であると意識しています。私のパートが特別で目立つときも、そうでないときでも。
少し横道にそれてしまいましたね。美的側面について、ロックのライブでの音楽体験はクラシックやスタジオ演奏より質が高いと思いました。いちばん好きなジャンルがクラシックであるのにです。強いてなぜかと問われれば、自由と、皮肉の少なさです。(ロックには多くの皮肉がありますけど。)私はクラシックでの少ない経験をだれにでも当てはめるつもりはありません。ひとりひとりが自分で判断するでしょうから。
バスでオーケストラとツアーしている方々に謝罪と同情をこめて申し上げます。皆さんにこんなことが信じられるでしょうか。私がツアーに出かけるときは、少人数で、ロード・マネージャーがいて、ホテルのチェックインをしてくれ、キーまで渡してくれます。ツアーのとき、少なくともいくつかのバンドと一緒のときは、私の楽器をセットアップしてくれる専門家がいます。楽器のチューンナップもしてくれ、必要なときに渡してくれます。私はやり方を忘れてしまったくらいです。弓にロジンまで塗ってくれるんです。(ただし、彼がそれを忘れることがあって、客の前でソロをやっているときにひどい目にあいます。)私たちが頼んだ食べ物は何でも舞台裏へ届きます。観客は、多くても少なくても、全貝私の音楽を聴きたくて来ており、しかも、全員耳を傾けるのです。こんな安易なツアーで私は時々結構なお金をもらい、さらに、バンドは会場前のTシャツ販売で儲けます。時にはそれが演奏の儲けを上回ることもあります。(時には儲けはそれだけのこともあります。)また、ときには、全てのツアーを終えて赤字だとわかるが、支払うすべもない、ということが信じられるでしょうか。本当にないのです。ときには、バンドはレコード製作の費用として何十万ドルと借金をします。それは印税の見込みの立たないうちからレコードの売り上げで埋め合わせなければなりません。ときには、いやしばしば、これがバンドの生活です。 最後になりましたが、イーストマンが将来クラシック以外の音楽も考慮に人れてはどうかという提案をします。在学中、私はジャズも選択肢に人れるべきだと小さいながら運動をしていました。当時練習室でジャズをやっていると眉をひそめられたものです。当時の親友のひとりが、クラシック・ギターの演奏は価値があるとはいわないが、少なくとも許されるべきだと、学校に納得させようとしました。残念ながらだめでしたがね。 さて、ワールド・ミュージックの勉強は何を意味するか話をする必要があります。ワールド・ミュジックのコースがある学校は、ある種の活気が、エレクトリックな音楽祭にあるような活気があるのではないかと思います。ラッキーなことにワールド・ミュージックのフェスティバルに出る機会が何度かありましたが、世界中の音楽を聴くことは為になり、気持ちを高めてくれるだけでなく、ミュージシャン同志の交流は、間違いなくすばらしく心が豊かになります。将来イーストマンが世界の音楽を取り入れることを強く望みます。
最後に一言述べておきたいと思います。クラシック以外の音楽を少人数のグループ、クラシックをオーケストラとして、クラシックにはソロも、室内楽グループも、私には想像もつかない漂流のごろつき奏者も存在しないかのようにお話ししてきました。その点は自分でも承知しています。皆さんに、私がわかる領域でこの話をしたのだとご理解いただきたいと思います。
(訳注:この翻訳は、メンバーの宮本恵津子さんのご協力を得て実現しました。 また、更にMikaさんの詳細な校正と訂正を得て、素晴らしいものに仕上がりました。 ここにお二方に深く感謝の意を捧げます。 文中、意味を掴みやすくするため、敢えて意訳を載せざるを得なかった部分がありますが、 この部分はKeiとJunが独断でMikaさんの危惧を押し切って書いています。 ご了承下さい。 また、無断転載、転用はおことわりいたします。m(_._)m Jun and Kei) |