演奏家の視点から:クラシックとノン・クラシックのはざまで

トニー・レビンによるこの講演は、1996年9月27日、ニューヨーク、ロチェスターにあるイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)のキルボーン・ホールで開催された、「ポピュラー音楽とカノン:境界の再考」と題するシンポジウム(クラシック音楽家と現代音楽の状況との関係を探求する)で行われたものである。
(彼は、クラシックを演奏することと、ジャズ、ロック、ポップス、ワールド・ミュージック、スタジオ・レコーディングなどの世界で働くことの、技術的、音楽的、商業的、心理的相違について語っている。)

世界中を飛び回って飛行機、バス、ホテルや控え室でこの公演の原稿を書きながら、予定の音楽の話より自己紹介のほうが長くなるのではないかと不安になりました。結局のところ、私は演奏家であって学者ではないし、私がこれまで公の場で演奏してきた時間から相当長い自己紹介はできそうだけど、人前で話をする役にはあまり立ちません。でも、私の両親の家の壁にはイーストマン音楽学校の卒業証書が貼ってあることを思い出して勇気がわいてきました。証書には「文学士」とあり、ベースがなくても、何とかわたしでも自分を表現できるだろうと暗示してくれているのです。

  1968年に卒業して以来、ロチェスターに戻ってきたのは戦争記念館やレッド・クリーク・クラブ、オーディトリアム・シアターなどでコンサートがあったときだけで、ここでは演奏したことはありません。いつも日帰りで、ここをゆっくり訪ねる時間はなかったのですが、たまにメインホールにしばらく座っていることはありました。そして学校へと行き来する人々を眺めたりしました。私は在学中にそのやり方をきちんと会得したんです。それを「ホールに座る人のおつとめ」と呼んでいました。もうひとつ懐かしい伝統がここキルボーン・ホールに受け継がれていると知って嬉しいですね。いいかげんな生徒のリサイタルでは、期待したほどの出来でなかった場合に目立たずに出られるよう、通路側の席に座るというもので、例の独特の急ぎ足で、大事な授業かリハーサルがあって最後まで聴けないのが残念だというそぶりをすることがコツなのです。これから今日の話の概要を言いますから、通路側の席の方は出て行く頃合いの参考にしてください。

今日は、演奏家がクラシックから他のジャンルへ転向するとはどういうことかお話ししようと思います。これについては経験豊富なので。私がやってきたのは、ジャズ、いろいろなタイプのロック、アルバム、コマーシャルや映画向けのスタジオ演奏のほかワールド・ミュージックもあります。

私はベーシストとしてやってきたので、リズム楽器の演奏者と相通ずる部分は大きいのですが、リズム楽器に限らず、大概の楽器にも共通する問題に踏み込んでみようと思います。でも残念ながらトロンボーン奏者については詳しいお話はできません。クラシックからの転向について、様々な面からアプローチするつもりです。技術、美学、心理、ビジネス等。ああ、ビジネス! レコード産業と産業界のポピュラー音楽への影響にも触れます。ラジオ業界のことも。ビジネスは専門外ですが、私の知っていることが役に立たないとも限りません。時間かせぎにスタジオ録音やロードでの経験も少しお話しできるかもしれません。もちろん、ただの経験談には終わらせないつもりです。最後に質問を受けたいと思います。

イーストマンに入学したとき、私はクラシックのベース以外はまったく演奏していませんでした。もちろん大概のベース奏者と同様、ジャズやフォークに手を染めたことは少しありました。4年後ロチェスター・フィルに入るとジャズを演奏し、クラブにも出ながら、ロックをやりたいと思っていました。オーケストラを続ける気はありませんでした。私は運がよかったと思っています。若いときにオーケストラで経験を積んで、遅からずしてそんな決心ができたので。後にも、優れた演奏家に会ったり共演したりする幸運に恵まれたし、ニューヨークに移ったのは、まだそこに仕事がたくさんあるときでした。結局、価値があると私が思った音楽を演奏するアーティストのレコード製作にお呼びがかかることになりました。その数年後には、ニューヨークでセッションするよりロードでライブ演奏をすることに決めました。ニューヨークにまだスタジオ演奏の仕事が残っていた頃の話ですけどね。そしてキング・クリムゾンのメンバーになれたことは、やはり幸運としか言いようがありません。このバンドにはやりたい音楽をやれる自由があるのです。後でお話しますが、そんな自由はいつも保証されるわけではありません。

私が使う言葉の定義を少ししておきましょう。みなさん全員がいつも練習室にいて時折ラジオでバッハ以外の曲を聴くというわけではないでしょうから。「ポピュラー音楽」という言葉はこの講演会のタイトルにもありますが、私はクラシック以外の、ついでに私のも除いて、あらゆる音楽を「ポピュラー音楽」と定義します。もちろん、多くの愛好家がいますし、レコードも売れているという意味では、クラシックもpopular(人気がある)です。私の大ざっばな定義では、ジャズやポルカ、シタール・ラガもポピュラー音楽に含めます。「ポップス」とロックの違いを知らない(または気にしない)方もいらっしゃるでしょうが、我々演奏者にとっては歴然とした違いがあります。「ポップス」はもともと「ポピュラー」を縮めた表現ですが、それはラジオでかかるたわいない曲のことで、たとえロックのスタイルであっても同じことです。ロックにはたくさんのスタイルがあります。普通はギターがあり、歌があり、大音響で演奏されます。つまり、これは大音響でやらなくてはならないという気持ちを伝える入念に仕組まれたサウンドなのです。ジャズについてはみなさんご存じですよね。私は聴けばそれとわかりますが定義はできないので。ワールド・ミュージックは魅力的なジャンルですね。このセミナーで大いに語られると聞いています。正式な定義は知りませんが、私の経験では、西洋音楽が混ざっていても、実際混ざっていることはよくあるのですが、西洋以外の文化圏の音楽で、民族的ルーツを強く持っているものです。ドラマーズ・オブ・ブルンジを相手にツアーをしたことがありますが、彼らはブルンジでずっと使ってきたのと同じ土地のドラムを演奏します。ユッスー・ンドュールという人気のあるセネガルの歌手ともコンサートをしたことがありますが、そのバンドにはトーキングドラム奏者が2人いて西洋のドラムも持っているのです。ベーシストは私と同じブランドのエレキベースを弾いています。

定義の話に戻りましょう。私は「リズム奏者」とか「リズム・セクション」という言葉をよく使いますが、ベース、ドラム、キーボード、ギター奏者のことです。さて、音楽のジャンルが変わるとどうなるか、技術面から見てみましょう。クラシックは、リハーサルから始まります。ある決まった時刻から始まることになっていて、実際その時間に始まり、休憩があり、終了時刻があります。こういったことはジャズではきわめてまれであり、ロックにいたっては皆無です。特に休憩とは無縁です。ニューヨークでスタジオの仕事をやっていたときのことですが、弦楽奏者がいるとセッションはまったく違ったものになることがわかりました。彼らは1時間ごとに休憩を求め、実際取っていました。我々リズム奏者は今何をやっているかさえほとんどわかっていない状態でした。リズム奏者だけのレコーディングでは、組合規定があっても、予定を決めて休憩を取ることなど決してありませんでした。もちろん、このリズム奏者が、遅刻はする(弦楽ではめったにありません)、昼食はとる、電話をかけると言って中断する、何も言わずにしばらくいなくなる、あげくの果てに、はなから来ないこともありました。では、私はもっと計画通りに進む弦楽とのセッションが好きだったかというと、そうでもありません。私がニューヨークで演奏した最初のバンドの中にホワイト・エレファントというバンドがあって、いわゆる「リハーサルバンド」でした。つまり、吹奏楽奏者がたくさんいて、夜、仕事が全部終わった後集まるんです。彼らが「吹ける」ように。(「吹く」ことの定義は必要ないですね。)リハーサルは9時か10時に予定されているけど、実際始まるのは早くても真夜中、午前2時、3時になることもありました。純朴だった私は毎晩時間通りに人って、他の15人のうち誰か現れるのをひとりで待っていました。これも勉強のうちでした。これはオーケストラのリハーサルではないのだと。やっとライブの仕事を始めた時も、事情はさして変わらず、相変わらず何時間も遅れて開始していました。
昔から直らない私の欠点のひとつは、どうしても遅刻できないことなのです。誰も時間を守らないとわかってからもです。のんびり構えたミュージシャンが来るのを待って人生のおおかたを過ごすのが私の業なのです。そんないらいらする状況がピークに達したのは80年代の初めでした。そのとき、一緒に仕事をしたあるプロデューサーが、いちばん遅刻の多かった奏者を正式なセッション・リーダ一にして、給料を上げたのです。変なやり方ですが、プロデューサーはそれでこの男の遅刻をなくそうとしたのです。私はその論理には納得しませんでしたが、ともかく相変わらず時間通りにスタジオに入っていました。

クラシックが他より整った体勢を持っていることは、曲や演奏方法にも反映されています。ホワイト・エレファントがリハーサルを始めるのが遅いことは申し上げましたね。彼らはダウン・ビートなしで曲さえ選ばずに始めるのです。奏者はスタジオに入ったときどんな曲をやっていようと構わずに加わって、やがておなじみの曲ができあがります。すると、次は曲のなかで、ひたすらリピートする「A」から「B」に移るというまるで法律みたいに複雑な冒険が起こるのですが、これが、だれが声をかけるでもなく、誰かがコンサートマスターになって合図するわけでもない。実際、正常な神経の人間にはつらいバンドだったでしょうね。

どんな曲をやるのか、またどんな構成でやるかあらかじめ決めないで演奏するバンドも確かにあります。一度、キング・クリムゾンのギタリストであるエイドリアン・ブリューにロバート・フリップのソロの後、始めるタイミングをどうやって知るのかと尋ねたことがあります。「ロバートを見てると、ある風に顔をしかめて、手がネックの先までいってそれ以上いけなくなる、それでわかるんだ。」と彼は言っていました。
クラシックでは、ある曲の演奏で毎回同じ旋律を、できれば、すぐれた表現と感情があると解釈された「正しい」旋律を繰り返します。ですが、あらゆるジャンルの音楽がこれを目標としているわけではありません。まずジャズがそうで、ここでは同じ旋律を二度と繰り返してはいけない、一度きりだとされています。原則として即興ですが、感情と同様、表現も大切です。ジャズでは、リズムをちやんとした感じにすることは、ベーシストやドラマーの生涯の目標です。

ある意味ではもっとクラシックに類似しているが、クラシックの理想からはもっと離れているのがロックでしょう。大概のバンドは同じ旋律になるように演奏し、演奏ごとに解釈を変えようとしたりしません。普通はソロの即興がありますが、ジャズほどの意外性はめったにありません。理想のロック演奏とは何だろうか。そうだな、きっと、格好良く、大きなサウンドで、何でもありで、女の子をしびれさせ、できるだけ人気を得ることなんでしょう。
もちろん、私はそんな「わかっていない」バンドをやってはいません。冗談でなく、私はキング・クリムゾンのメンバーになれて幸運でした。クリムゾンは常に演奏の幅を広げようとしています。70年代(私がまだメンバーになる前ですが)、和音構成を従来の和音ではなく4度音程を基本にし(クラシックではすでに行われていました)、ジャズのように、全員が即興ソロをやったりしました。現在は、トーン・スケープ、ポリリズム、マス・インプロヴィゼーションなどを実験中で、同じ曲を違うライブで演奏したレコードの発売もします。ラディカルなことですよ。ありがたいことに、ほどほどにファンがいるおかげで好きなことができます。こういうバンドが増えるといいのですが。キング・クリムゾンのことが出たので、また彼らの話をしましょうか。短い批評をいくつかご紹介しましょう。

ウェリントン・ニュージーランド・イヴニング・ポスト紙より
「このロック界の浦島太郎には、この25年は過ぎなかったも同然である」
「タイム・アウト」という有力な雑誌に載った「スラック」というアルバムの批評から
「最初7分間もったいぶって誇張しただけの無意味なインストルメンタルを聴かせた後、結局「スラック」は、味気なさ、過剰、気取りがふがいなく人り交じった空虚に迷い込む。・・・・希望も将来もすべてあっと言う間に、息のできない陰気な瘴気に吸い込まれてしまう。」
こんなのもあります。
「プログレッシブ・ロック、古典主義、上品なへヴィ・メタル、どう呼ぼうとも、キング・クリムゾンは鈍重で無気力なバンドである。ずっとそうだったが、年月を経るほどにますますご立派に、慢心して、不愉快なほど身勝手になっていくようだ。」
おわかりの通り、我々は確かに極めて価値ある仕事をしているわけです。

話をもとに戻しましょう。ジャンルを転向して、それに順応していくというのは大変なことです。自分のやってきた演奏方法が理想とは見なされないですからね。しかし、ありがたいことに、成功に終わったショーでの喜びというものにはジャンルの違いはなく、境界はないのです。

演奏家はどうやればこのような変化にいちばんうまく適応できるのでしょうか。残念ながらアドバイスできるようなことはありません。ただ、計画性の欠如への不満は、音楽がうまくいって我慢が報われると、ずいぶん解消されました。これは自分なりの対応法ですが、今でも使っています。皆さんのなかでクラシックをしばらくやった方は自分なりの対応法を作り上げているだろうと思います。また、計画性のある状況に向いている人もいれば、反対の人もいます。できれば自分に向いたジャンルにおさまれるといいですね。

多くの楽器がそうですが、クラシックからの転向は電気を使う楽器への転向を意味します。
私がオーケストラをやめたとき、ベースは確かにそうでした。今ではドラムもそうです。キーボード奏者(昔はピアニストと呼ばれていました)はいちばん大変です。いつも最新のシンセサイザーとサンプリング機器が必要だとされていて、どれも高いうえに半年ごとに新モデルが出ます。エレクトリックドラムも状況は似たようなもので、あっと言う間にサウンドは古くなってしまい、すぐに時代遅れになってしまう装置に収入をつぎ込み続けなければならないのです。弦楽と吹奏の奏者はまだ手持ちの楽器で大丈夫だと思います。キーボードの最新のサンプル音に仕事を奪われていませんように。アフリカのバンドでさえ、今ではアコースティック・ドラムとエレキ・ギターやエレキ・ドラムを組みあわせています。クラシックな楽器に固執するベース奏者やドラマーは、ギグをしようとすると必然的に仕事の幅は狭くなるでしょう。
(私は、自分の好きな楽器に固執するのがいけないと言うつもりはありません。それどころか、それがいちばんいいと思っています。実は私はコントラバスよりフェンダーベースのほうが好きだったのですが、そうでなかったら、私は転向に二の足を踏んだだろうし、フェンダーベースもうまくはならなかったでしょう。)
面白いことに、多くのオールドのエレキ楽器の需要が高まっており、高い値段で売れています。希少価値があるからではなく、驚くことに、新しいものより音がいいからなのです。オールドとは50年代と60年代に製作されたもののことです。ギターだけでなく、エレキ・ベース、アンプ、場合によってはシンセサイザーも含みます。高価というのは、おおざっばに言うと、50年代のギターが数千ドル、特別なものだと2万ドルにまではねあがります。歴史のあるバイオリンみたいじゃありませんか。

もちろん、クラシックからの転向に伴う大きな相違は音量の大きさです。1812番の開始曲が耳に痛かったように思っていた頃が懐かしいです。悲しいかな、私は聴力がずいぶん衰えてしまいました。きっとロック・ミュージシャンや観客の多くもそうでしょう。耳のことではずっと、私は仕事の仲間より気をつけてきたのですがね。何年も前だけど、高い音が聞こえなくなって、チューニングがやりにくくなったと気づいた後、耳栓をつけるようになりました。ここ何年もずっとドラムやアンプやPAのそばにいるので、用心もむなしく、私の耳はすっかり悪くなってしまいました。(後ほどの質疑応答には、このことをお忘れにならないようお願いします。)

ロック・コンサートの音量をしぽることはできません。観客は大音量のパワーに慣れているし、音量を下げたコンサートは好まないでしょう。私が一緒に演奏するバンドのなかにはステージの音量を下げようとしているところもあります。奏者がみなその気になれば容易に実現します。観客に奏者の2倍の音量を聴かせて奏者とは別世界にすればいいのです。ピーター・ガブリエルのバンドはこれに成功しました。何年も音量のレペルを上げすぎのステージをやってきたのですが、耳につけるモニターに切り替えたのです。奏者はそれぞれミキシングと音量のレペルを調整し、ステージのアンプは音量は下げておきます。最近このモニターによる方法が増えているようです。いい傾向です。ただ大きな欠点は、個々のモニター音量がお互いにわからないので適当な音量を教えあうことなく、知らない間に自分の聴力を完全に失ってしまう可能性があることです。コンサートで無料で耳栓を配布するバンドもあると聴いています。これも正しい傾向ですね。
どのくらいの音を大きいというのでしょうか。100デシベルはそばにいても大丈夫な大きさだと言われています。その2倍の110デシベルは、ロック・コンサートではあたりまえです。友人のドラマーのほとんどのスネアドラムを測ったら、l15デシベルでした。6フィート離れていたんですが。もっと近くだと何デシベルになるのか考えたくないですね。1000ワットのPAシステムからは120デシベルが出ます。観客にはもっと出ています。私は時々音圧メーターを持ってきて、サウンド・チェックのときあちこちのアンプの前に掲げることをお話したでしょうか。そのせいで首が少し痛くなったけど、私のメーターを見るのがこわくて、だれでも音を弱める効果があるとは、これまで気づきませんでした。私の考えでは、我々ロッカーが年をとり、音楽で耳が遠くなったという認識が広まれば、この問題がもっと取り上げられるようになり、いつか、煙草と同じように、110デシベルをこえる音楽は身体に悪く規制すべきだと考えられるようになってほしいものです。

生み出され続けているポピュラー音楽に機械が与えた影響は大きく、そのため、ポピュラー音楽は20年前とは大きく様変わりしています。ドラム・マシンが80年代に流行し、続いて、ベース、ピアノのシンセが出、弦楽や吹奏もシンセ化され、バンド、セッション、映画、コマーシャルの楽器演奏全体が変わりました。以前はスタジオでひっばりだこだった職人タイプの奏者の仕事が減りました。要求される演奏のタイプも変わりました。アルバム(もちろん、現在はCDですけど)製作について、プロデューサーは、以前生身の人間を相手にしていた頃よりずっとパートをコントロールしやすいと気づきました。ドラム・マシンは、音があまりよくなかった頃からよく使われていました。やがて改良されて本物のドラムのような音になったけれど、やはり人間のドラマーのようではありません。興味深いことですが、こういう機械も、本物らしくするために、結局はランダムな幅をもたせてプログラムしなくてはならなかったのです。この技術が好きなドラマーはドラム演奏でなく、ドラマーのような音を出すドラム・マシンのプログラムの専門家になりました。機械のような正確さと信頼性で人気を得たドラマー(やベーシスト)もいましが、彼らがプロデューサーに提供するのは機械的技術であって、我々昔ながらの奏者のように、パートについて問いつめたり、議論したりしません。我々にとっては意味のあるパー卜の演奏が極めて重要なのですが。(リッチー・へイウッドとリトル・フィート、ジョン・ロビンソンとスティーブ・ウィンウッドのセッションの話)

ドラム・シンセの後に出たベース・シンセも次第に普及しています。もちろん、音そのものはすぐにすたれてしまいますが、それでも、プロデューサーには魅力的なしろものです。私や私のようなベーシストは、スタジオで、シンセのデモパートを再生してくれとか、合わせて弾いてくれと頼まれることが増えてきました。シンセ音をまねろと言われることもよくあります。白状すると、そういう時には「そういうパートが欲しいのなら何故わたしを呼んだのか?」と強く言い返したこともあります。まあこれは、私の経験と評価を楯にした言い方ではあります。(結果はさまざまでした。)返答がどうあれ、現実は私が必要だったのではなく、ただ何らかの理由で、シンセ音がどんなものか確認するため本物の奏者の音を聞いてみたかっただけでした。(レコード製作をすべてシンセでやって、生きた奏者を使わないプロデューサーに仕事をもらうとはどういうことか?)

今では、弦楽、吹奏、ベース、個々のドラムのサンプル音があって、至る所でレコードやコマーシャルの製作に使われているのは、ご存じの通りです。私の知っているドラマーやベーシストのなかには、シンセで自分のディスクを作らないかと声をかけられた人もいます。長い音、短い音を弾いて、フィルやビートを演奏します。そしてその記録された音だけを使って、シンセ・プレイヤーが奏者なしで、奏者のサウンドや感情さえとらえたレコードを作るのです。これは現実にもう行われています。皆さんのなかからもご賛同が得られると思いますが、私は、優れた楽器奏者の価値は決して消えないと思っています。確かにそれはここ何年間も振り向かれていませんが、少しずつ見直されてきています。今日のシンセ・サウンドはすべてみるみるうちに古びていくでしょう。新鮮な時には気づかない微妙な音の違いが、1、2年経つと古くさくなる原因かもしれません。奏者のパートのサンプルは確かに彼の演奏したものには違いありませんが、奏者を取り巻く音楽に対する反応がサンプルには欠けています。これこそ奏者の創造性の本質であり、ありがたいことに、そのサンプルには不可能です。

私は次のような考え方の人間でもあります。ベース奏者が生み出す音には固有のベースらしさがあり、キーボーディストであれ、ギタリストであれ、他のひとがベースのパートを演奏しても欠けている何かがあるのです。ドラムはもっとその傾向が強いです。弦楽のシンセ音、サンプル音にはあえて触れなくてもいいでしょう。
我々はすでに、完全に機械化された音楽から、奏者の相互のやりとりのマジックを教えてくれる音楽に、世間の好みが戻りつつあるのを目にしていますが、この方向は、少なくとも次の転換点にさしかかるまでは変わらず、このマジックは世間で魅力を失わないでしょう。何より「アナログ」的な、反機械的なアプローチを特徴とするワールド・ミュージックの人気がアメリカで伸びてくるでしょう。(ヨーロッパではすでに人気が高まっています。)ひとつには、聴く機会がもっと増えるであろうからで、またひとつには、80年代のエレクトロニクス時代が生み出した本物の音楽への渇望のためでしょう。

音楽のスタイルごとの音楽的な違いについて少しお話ししましょう。クラシックからの転向で最大の挑戦は、ビートを刻むことだと思いました。これはリズム奏者にしか当てはまりませんが、お話しする価値はあると思います。
クラシックでは技術の多くが個人の手にまかされており、何年も練習を重ねます。楽譜が読めることはおまけですが、卒業後それが必要だと思ったことはほとんどありません。しかしクラシックのダウンビートは確かにある役割を担っています。ビートの中心です。あらゆるジャンルの音楽でそうというわけではありません。実際、私がビートと呼んでいるものは幅があるものだとわかってきました。点というよりボールですね。若いときジャズや、その他の音楽もやったけれど、クラシックの訓練を受けてきたので、自分の旋律をビートの中心において、ほかの人が少しずれていようとなかろうと私の知ったことではないと考えていました。それは間違いでした。自分の問題に気づいて、ビートの前後も演奏する技術を身につけるのは大変でした。慣れないやりかたでビート、すべてのビートを打つのは容易ではありません。ジャズやロックでは、奏者の能力と個性の大部分は、ビートを打つ技術と正確さにかかっています。この点で友人のスティーブ・ガッドには大変お世話になりました。ここイーストマンで一緒に演奏を始めたとき、すでに彼は経験のあるすぐれたジャズのドラマーでした。一緒に演奏した何年にもわたって、私の亀のようなのろい足取りを辛抱強く待って例を示して教えてくれました。チャック・マンジョーネが、ベースラインの一節を何度も歌って私にどんな感じになるか教えてくれようとしたのも覚えています。イライザ・デュリトルみたいに、長い間「スペインの雨」を正しく発音できなかったのです。これは当時のジャズのしきたりと反対でした。新人りの奏者には、下手であれば余計に、可能な限り意地が悪かったからです。(チャック・マンジョーネのベース・ラインを歌う)
学問的なことは詳しくないので、この問題についてどんな論文があるのか知りませんが、様々な著名なジャズ・ドラマーのビートの最前線や、ロックまたはブルース奏者の「ゆったりした」ビートについて、学位論文が書けることは間違いないでしょう。私はアフリカのバンドを相手にツアーをしましたが、来る晩も来る晩も異なるバリエーションを聴いて感動しました。彼らの技術は我々のように学校で習うのではありませんが、音楽の極めて重要な部分なのです。
この「幅のあるビート」の範疇に人る、オーケストラの例がふたつばかり思いつきます。ひとつは指揮者です。彼らの心臓に祝福あれ!指揮者が棒を弧の最下端に運ぶと、今が拍子を打つときだと思うでしょうが、必ずしもそうではないのです。(例えば、ガンサー・シューラー、アーサー・フィードラー、ストラビンスキー)拍子取りはオーケストラが決めるのでなく、指揮者が、普通曲の最中棒をどう動かすかによって決まるのです。指揮者というリーダーを見て(指揮者がいればの話ですが)、指揮棒の先が描く弧で彼の意図を正確に見抜く技は、どんな本にも載っておらず特に勉強するわけでもないのにすべてのオーケストラ奏者が習いおぼえていくことです。さらに、指揮者の意図が曖昧か、どうしようもなく遅れた拍子を要求する場合は、奏者全員が全体の拍子を感じ取る、一種の集団反応でそれを見つけるのです。こう考えると、オーケストラが正確な指揮者がいなくても正確に音を合わせることができるのは、まれな奇跡と言っていいでしょう。(バディ・リッチとの演奏の話)

オーケストラ演奏における拍子のバリエーションのもうひとつの例はウィンナ・ワルツです。二拍目を早めに打つウィンナ・スタイルで演奏したことがありますか。ウィーンの人には簡単でしょうが、我々には並大抵のことではありません。同様に、リズム奏者、スタジオの弦楽奏者にとっても、早め、あるいは遅めにビートを打つのに慣れるのは大変なことだと考えられます。弦楽奏者も含めましたが、彼らは通常リズムを取りしきることは要求されませんが、スタジオでは、映画やコマーシャルのために、違った役割が求められます。つまり、弦楽がダウンビートにならなくてはならないのです。ほんの一瞬も遅れてはいけません。リーダーはすぐに指摘するでしょう、奏者一人ひとりが一瞬早めに始めなければならないのです。コーヒーを一杯(飲んだ方が良さそうな話ですよね)。
レコード産業についてこれまで多くのことが言われ、また書かれているので、深入りする必要はないでしょう。大概のジャンルで大概のミュージシャンに影響する状況とは、レコードが売れなければバンドの存在に気づいてもらえないということです。ライブのチケットを買うのは度胸のある奴だけです。だから、グループ演奏で生計を立てようなんてとんでもありません。レコード会社は普通利益を追及するので、売れると思ったスタイルなりアーティストにしか投資しません。グループまたは個人のアーティストと契約すると、大金をつぎ込む場合から、全く宣伝しない場合までありますが、売れなければ失敗と見なされます。売れても、アーティストの手元には儲けのごくわずかしか入らず、売り上げを維持するか伸ばすようにプレッシャーをかけられます。みなさんは、メジャーの会社よりアーティストの扱いが人間的である「独立系」のレコード会社のことを聞いたことがあるでしょう。これは本当のことでバンドにとっては嬉しい傾向です。私自身、仕事仲間のアーティストの苦労を長年みてきたので、去年ソロアルバムを出したのを機に、小さなレコード会社を始めて少しレコードを売ることにしました。大会社に風変わりな音楽も手がけるように説得するという気はありません。私の会社は「パパペア・レコード」というのですが、私のCDひとつままならない状態なので、デモテープの持ち込みはご勘弁願います。

レコード業界、著作権、契約、弁護士などについて詳しいことを知りたい方にはお勧めの本があります。ドナルド・パスマンの「音楽ビジネスについて、これだけ知っていれば大丈夫」(All You Need to know about the Music Business)です。

ラジオの話をしましょう。ここアメリカでのラジオの影響は大変なものです。レコード店でどんな曲が売れるか、従って、どんな曲をレコード会社が出そうとするか、ひいてはアメリカのほとんどのミュージシャンがどんな曲を作ろうとするか、を左右します。これは、ラジオより音楽雑誌の影響が大きいイギリスとは違う点です。(ついでながら、イギリスの雑誌は、ピーター・ガブリエル、クリムゾンほか「古い」ものは何でも嫌っています。彼らの基準では数ケ月たったものは「古い」のです)ラジオの話に戻りましょう。私はラジオやその音楽の分類の仕方にはあまり興味がないのですが、今日の講演のために、少し調査を行ったので、ラジオ局、局のマネージャー、ラジオネットワークが使う分類をいくつかご紹介できます。レコード会社は各局に曲を、その分類の仕方に合う曲だけを提供しようと懸命になっていることは覚えておいでですね。もしあなたの曲がある分類に合わなかったら、…実際私の曲はどの分類にも合わないのですが、皆さんが私の曲を聞いたことがないのはそのためでしょう。
トップ40。これは、「人気のある」曲のことです。人口統計学的に言うと、18歳から34歳の男女が聴くのだそうです。AOR(アルバム向けのロック)。かつてトップ40に代わるものでしたが、今はもっと構成を整え、利益ベースです。ターゲットは18歳から34歳の男性です。
「アクティブ・ロック」と見なされるフォーマットもあります。A/C(アダルト・コンテンポラリー)です。35歳から54歳の女性を対象とし、無名のアーティストを扱いません。(レコード会社のほとんどの人はこれをエレベーター・ミュージックと呼んでいます)この分類は極めて調査的です。ホットA/C(アダルト・トップ40とも言われる)これはA/Cとトップ40を組み合わせた分類で、トップ40ほどエネルギッシュでもなく、A/Cほど眠たくもならない。対象人口は通例25歳から40歳の女性です。
モダン・ロック(オルタナティブ)。AAA(アダルト・アルバム・オルタナティブ)、これは「トリプルA」と呼ばれる分類です。クラシック・ロック、オルタナティブ、へヴィ・メタル、グランジ、カントリー、そしてもちろん、R&B(アーバン・ラジオ)、ハード・コア・ラップ、アーバンA/C、ゴールドR&B、リズミック・トップ40(「チャーバン」とも呼ばれる)、ヒスパニック・ラジオ、ニュー・エイジ・コンテンポラリー(NAC)、クリスチャン・コンテンポラリー。皆さんはこれをすべてロックだと思っていたでしょう。
先週、インターネット討論に参加して、クラシックの商業ラジオ局の専門家と話をしたとき、彼にいろいろなフォーマットをどう呼んでいるのかと尋ねたら、区別はない、クラシック・ラジオというだけだと言っていました。
楽器演奏家として、皆さんはこんなことを知る必要はありません。繰り返しますが、私はこの公演のために詳細をはじめて知ったのです。しかし、影響の大きさは見逃せません。例えば、キング・クリムゾンは、60年代と70年代に「プログレッシブ」という音楽を演奏するバンドとして知られていました。何年もたった今でも、私たちはバンドで新しく挑戦的な音楽を創造しようとしており、何と呼ばれようと関係ありません。でも業界には分類が必要なのです。
「プログレッシブ・ロック」は、今では70年代の音楽を表す用語で、私たちの音楽を蹉して言われることが多いのです。もうそんな曲はやっていないし、そんな曲はもちろんもう進歩的(progressive)ではないのに。でも、私たちの作る曲が本当に新しいのなら、ほかのどんなカテゴリーにも入らないでしょう。プログレッシブ・ロックとして市場に出るが、他のプログレッシブ・ロックと異なるので売れない。私たちがもっと未熟で素直だったら、プレッシャーに負けて、本当のプログレッシブ・ロックを演奏するか、ほかのカテゴリーにもっとおさまるようにするでしょうけどね。ソロ・アーティストの場合も同様で、いや、さらにその傾向は強いです。ソロの歌手は売れるどんなカテゴリーにでも容易に当てはめられるとレコード会社は考えています。
レコードやラジオ産業以上に楽器演奏の業界には多くのことがあります。一般にミュージシャンの労働組合はクラシック以外ではあまりないし、どんなところでも労働組合がなければそうであるように、保障が少ないのです。仕事は増えても、増えるのは金にならない仕事ばかりだけど、なかにはぺイのよい(クラシックより高い)仕事もあります。ビジネスが得意な人は音楽の才能とは別のビジネスの才能を発揮してうまく儲けることもできます。私の経験から、ビジネスの得意なミュージシャンは少ないと言っても皆さんは驚かないでしょう。私たちの音楽の質について言うと、さっきエレクトリックとアコースティックの楽器の話をしましたが、ふたつを比較すると、楽器演奏の本質を興味深くながめることができます。私が聴いた優れた演奏は、どちらの楽器でも、演奏技術と、それをこえて、内に秘めた感情と才能を楽器によって表現できる奏者の演奏です。確かに、アコースティックの持ち味のほうが独特で、年月とともによくなっていき、また、それぞれに固有の音がありますが、間違えないでもらいたいのは、エレクトリックで優れた質と表現の音楽が作られていることも確かです。

音楽の形式の違いによる価値の違いについて、個人的には、聴く音楽の種類によって音楽を判断することはありません。私はバッハを聴くのが好きですが、クラシックでなくても価値ある音楽なら、他にも多くを楽しんで聴きます。演奏するときは、常に演奏中の作品全体の一部であると意識しています。私のパートが特別で目立つときも、そうでないときでも。
集団で作られる質の高い音楽の大半はクラシックなのでしょうか。もちろんです。私が演奏したクラシックはほとんどどれも新しくはないけれど、何世紀にもわたる最も才能豊かな作曲家の手になるものです。ロックバンドではまずこうはいきません。でも、ああ、自分で曲を作ることができるのです。自分のパートを書いてごらんなさい。曲を自分なりに解釈してごらんなさい。弓の運び方を命令する指揮者なしでです。ああ、自由とは麻薬のようなものです。私がプロデューサーに向かって「それが望みなら、どうして私を雇ったんだ。」と詰め寄ったと話を覚えているでしょう。皆さんの指揮者にそんなことが言えますか。「私はスピカートのアップボウが得意なのに、どうして全部ダウンボウにしろと言うんだ。」(この件については個人的ないらだちがあります。どうして弓の運び方を命令するのだ、どうしてこんな音を出してくれと言って、それを出す技術はこちらに選ばせてくれないのだ。)(私のことを「へイ、ビートルズ」と呼んだ、ロチェスター・フィルの指揮者の話)

少し横道にそれてしまいましたね。美的側面について、ロックのライブでの音楽体験はクラシックやスタジオ演奏より質が高いと思いました。いちばん好きなジャンルがクラシックであるのにです。強いてなぜかと問われれば、自由と、皮肉の少なさです。(ロックには多くの皮肉がありますけど。)私はクラシックでの少ない経験をだれにでも当てはめるつもりはありません。ひとりひとりが自分で判断するでしょうから。
クラシックからの転向の心理的側面はいかに。まず、私の経験ではクラシックの外の世界のほうが楽しいです。ルールが少なく、組織だっておらず、ギャラが少なく安定せず、組合による保護もない。練習は少なくてよいが、仕事は多く、酒が多く、運が必要です。ポップスやロックやスタジオの仕事を見つけるのに、インターナショナル・ミュージシャンにオーディションのお知らせが載っていたりしません。舞台裏のオーディションもありません。方針も成功にとって重要であり、成功の有無に左右されるのは、しのぎをけずる他のどんな世界も同じことです。
一般に、演奏される音楽にあまり敬意を払わないが、それゆえに、不満も少ない。シべリウスを、シュトラウスではないからという理由で軽蔑したりしないでしょう。あくまで一般論ですが、オーケストラ奏者より、ポピュラー音楽奏者のほうが音楽を素直に受け入れる傾向があります。(少なくとも、オーケストラでの私の限られた経験からするとそう思えます。)

バスでオーケストラとツアーしている方々に謝罪と同情をこめて申し上げます。皆さんにこんなことが信じられるでしょうか。私がツアーに出かけるときは、少人数で、ロード・マネージャーがいて、ホテルのチェックインをしてくれ、キーまで渡してくれます。ツアーのとき、少なくともいくつかのバンドと一緒のときは、私の楽器をセットアップしてくれる専門家がいます。楽器のチューンナップもしてくれ、必要なときに渡してくれます。私はやり方を忘れてしまったくらいです。弓にロジンまで塗ってくれるんです。(ただし、彼がそれを忘れることがあって、客の前でソロをやっているときにひどい目にあいます。)私たちが頼んだ食べ物は何でも舞台裏へ届きます。観客は、多くても少なくても、全貝私の音楽を聴きたくて来ており、しかも、全員耳を傾けるのです。こんな安易なツアーで私は時々結構なお金をもらい、さらに、バンドは会場前のTシャツ販売で儲けます。時にはそれが演奏の儲けを上回ることもあります。(時には儲けはそれだけのこともあります。)また、ときには、全てのツアーを終えて赤字だとわかるが、支払うすべもない、ということが信じられるでしょうか。本当にないのです。ときには、バンドはレコード製作の費用として何十万ドルと借金をします。それは印税の見込みの立たないうちからレコードの売り上げで埋め合わせなければなりません。ときには、いやしばしば、これがバンドの生活です。
大概のバンドは、初めの頃、自分達より人気のあるバンドの「前座」をするためにツアーに出かけなければならないなんて信じられますか。この種のツアーはノーギャラで、レコード会社の同意が必要で、サウンドチェックはほとんどさせてもらえず、毎晩たった30分のステージで、このバンドを見たいと思っているわけではない客と向き合う。なかにはお目当てのバンドを早く出せという客もよくいます。

最後になりましたが、イーストマンが将来クラシック以外の音楽も考慮に人れてはどうかという提案をします。在学中、私はジャズも選択肢に人れるべきだと小さいながら運動をしていました。当時練習室でジャズをやっていると眉をひそめられたものです。当時の親友のひとりが、クラシック・ギターの演奏は価値があるとはいわないが、少なくとも許されるべきだと、学校に納得させようとしました。残念ながらだめでしたがね。

さて、ワールド・ミュージックの勉強は何を意味するか話をする必要があります。ワールド・ミュジックのコースがある学校は、ある種の活気が、エレクトリックな音楽祭にあるような活気があるのではないかと思います。ラッキーなことにワールド・ミュージックのフェスティバルに出る機会が何度かありましたが、世界中の音楽を聴くことは為になり、気持ちを高めてくれるだけでなく、ミュージシャン同志の交流は、間違いなくすばらしく心が豊かになります。将来イーストマンが世界の音楽を取り入れることを強く望みます。

最後に一言述べておきたいと思います。クラシック以外の音楽を少人数のグループ、クラシックをオーケストラとして、クラシックにはソロも、室内楽グループも、私には想像もつかない漂流のごろつき奏者も存在しないかのようにお話ししてきました。その点は自分でも承知しています。皆さんに、私がわかる領域でこの話をしたのだとご理解いただきたいと思います。
皆さんの心と力が導く音楽がどんなものであろうと、その成功が持続するよう祈ります。成功とはなにか、ご自分で判断するでしょうが、音楽を演奏するという職業、それが自分の楽しめる音楽であり、世界と共有できる音楽であればすばらしい成功だと思います。

(訳注:この翻訳は、メンバーの宮本恵津子さんのご協力を得て実現しました。
    また、更にMikaさんの詳細な校正と訂正を得て、素晴らしいものに仕上がりました。
    ここにお二方に深く感謝の意を捧げます。
    文中、意味を掴みやすくするため、敢えて意訳を載せざるを得なかった部分がありますが、
    この部分はKeiとJunが独断でMikaさんの危惧を押し切って書いています。
    ご了承下さい。
    また、無断転載、転用はおことわりいたします。m(_._)m  Jun and Kei)



[ オリジナルページ | ライブラリページ ]


Nov.8 1996
http://thrak.ient.or.jp/~tlclub/speechj.html