Stories from the book 以下の文章の著作権はTony Levin氏、並びにPapa Bear Recordが所有しております。この原文、翻訳文のいずれも、全部、あるいは一部を引用し、いかなる形でも出版、掲載等されることを堅くお断りいたします。 このページについてのお問い合わせは、TLCの岩脇(iwwk&po.incl.ne.jp 送信の際は&を@に変えてください)までお願いいたします。 ![]() Tony Levin著Beyond the Bass Clefから、ある物語。 ニューヨークのミュージシャンは参加することが好き。彼らは自分の楽器を携えてクラブに入ってゆき、演奏しないかと誘われるのを待っている。 1975年の、あの忘れられない夜、僕は素晴らしいビブラフォン奏者のMike Mainieriとデュオで演奏していた。そのレストラン-クラブは、ミュージシャンがよく参加してくることで知られていた。最初のセットの終わり近くになって、Jan Hammer がピアノを弾き、Jeremy Stieg がフルートで参加していた。ステージは小さく、デュオでちょうど良いほどの大きさだったため、非常に混みあっていた。Jeremyはステージではね回って演奏していたのだが、突然鼻をピアノにぶつけてしまった。彼はバーに引っ込んだ。 Mikeは怪我の程度を見るためにステージを降りた。すぐに他のビブラフォン奏者が聴衆の中からあらわれ、断りなくステージに上ってJanと僕が演奏している中に加わってきた - その時の曲は、"Someday My Prince Will Come"だったと思う。 その男が何も尋ねなかったので、Mikeは彼にマレットの頭が4本とも緩んでいることを彼に教えなかった。 僕たちが演奏していたら、マレットの一本の頭が残り三本とかの男を残して聴衆に向かって飛んでいった。聴衆は飛行物体に身構えた。この時点で、Janはソロをやっていたのだが、大きなネズミがキッチンからあらわれて、ゆっくりとピアノのところまで歩いてやってきてJanの正面に鎮座した。 ビブラフォン奏者はこちらに背中をむけていたのでネズミを見なかったが、Janは見た。彼は素早くソロを切り上げて、イスの上に立ち上がった。 ビブラフォンの彼はこの背中で起こっている出来事を、自分のソロの合図だと思って激しくアドリブを始めた。すぐにもう一本のマレットの頭が飛んでいった。彼は二本のマレットで変な格好でうつむいて演奏し、何とかそれ以上飛んでいかないようにしていた。Janは相変わらずイスの上に立っていた。身をかがめてマレットの頭をつかまえようとしていた聴衆はといえば、今やこの光景を楽しんでいた。彼らはまだネズミの存在に気づいてなかった。そうこうしている間に、騒動に敏感なクラブのオーナーはステージのところにあらわれて、密かに、注意を惹くことなく、ほうきの柄でネズミを殺そうとした。多分これは一番良いプランではなかったけれど、それでもまぁ一つのプランではあった。 依然我らのビブラフォンの君は演奏を続けており、彼の背後で起こっている事態に気づかなかった。さらに一本のマレットの頭を失い、彼は今や一本のマレットだけでソロを弾いていた - これは簡単な仕事ではない。 MikeはJeremyの、後に骨折していたとわかる鼻を親切に看護していた。Janはイスの頂上から安全にこの出来事を見渡していた。ウエイトレスがネズミに気づいて金切り声を上げて、バーのスツールの上によじ登って、空中から見下ろすことに参加した。 僕はこの間中ずっと心ここにあらずでベースラインを弾いていた。クラブのオーナーはほうきの柄で床を叩いてネズミを追い、パーカッションを担当していた。 ネズミ、ニューヨークのネズミは首尾よくほうきを避けたのだったが、彼の好みの楽器であるピアノの演奏が何故止まってしまったのか、困惑しているように見えた。 そして、ゲストのソリストは、運良く一本のマレットで思い切り演奏できて、この騒動が自分のソロに対する賞賛の証だ、遂にニューヨークでスターミュージシャンとなる日が来たのだと確信していた。 The Alternative Travel Agent
それはPeter Gabrielのバンドでツアーしていた時の事。サンフランシスコで3日連続の公演があった。いつもホテル代の高くつく街だったので、PeterのマネージャーのGail Colsonは街外れの、空港のそばのホテルを予約していた。これがひどく見栄えのさえないホテルだった。高速道路に面していて、窓からの眺めといえば中古車センターだけなのだ。さて僕らがチェックインしていると、Peterが電話ボックスに向かって歩いていくのが見えた。スーパーマンに変身するわけじゃない。彼は、僕らにはすでにお馴染みになっていた「オータネイティブ旅行社員」に変身したのだった。 偉大なるフレンチフライ野郎
同じツアーで一緒に旅していると、バンドのメンバーのおかしな癖に気が付くことがある。僕はJerry Marottaとは相当長い間一緒にツアーしてきたので、彼の奇癖については自分の事よりも理解してしまっている。そのなかで常に僕を悩ませてきたのは、一緒にマクドナルドへ行くと(随分何度も行ったものだが)彼は何時もラージサイズのフレンチ・フライを頼む代わりに、必ずスモールのフライを2つ頼むということであった。その方が安上がりなんだろうか?小さな紙袋に入っている方が、大きめのボール紙の入れ物に入っているより味が良いのだろうか?彼は答えなかった。彼自身、理由が分からなかったのである。それは単なる癖なのだろうが、僕にはそれが気になってしようがなかった。 血塗れのクリスマス
クリスマスまであと一週間。ピーター・ガブリエルのツアーもロンドンのHammersmith Odeonでの2日間の公演を残すのみとなっていた。その初日の公演も順調に終わりに近づき、「On the Air」というアンコール曲の最後の部分で、僕は何かが頭にぶつかったのを感じた。 Aha, The Attack of The Green Slime Monster
Aha, The Attack of The Green Slime Monster、(嗚呼、緑色粘液怪獣の攻撃)これはあるバンドの名前だ。1970年代、最も派手に失敗したバンドの一つである。僕らのリーダー、Don Prestonはこの少し前にThe Mother of Invention(訳注:フランク・ザッパのバンド)でキーボードを務めたばかりで、少しばかり猟奇趣味に走る傾向があった。彼は普通のキーボードの他に、テレミンの様な音色を出す、ボタンのいっぱい付いた箱も持っていた。むろん当時からシンセサイザーという言葉はあったけれど、実際に音を聞いた人間は滅多にいなかったし、いずれにせよDonのやつは他に2つと無い代物だったのだ。接続コードがごちゃごちゃと絡まったその箱には、真っ赤な目立つボタンが一つあって、それを押すと、箱の上から突き出た2本の棒の間に、まるでフランケンシュタインを生き返らせる時のような、電気の火花が弧を描いて走るのだった。さらに、目玉のとれたゴム人形の頭の部分に、眩しい電球を仕込んだランプがせり上がってくるのだが、その頭には半透明で緑色に輝く張り形が取り付けてあった。非常に印象的な楽器である。
首絞め天使 81年のクリムゾンのツアーで、僕はベルクエンゲルに出会った。唐辛子風味のシュナップスで、地球上で一番強い酒である。バージンレコード・ドイツ支社から派遣されたエリカに連れられて、ミュンヘンで入ったメキシコ料理の店だった。(なんでまたミュンヘンまで来てメキシカンなんだろう!)この酒は体の隅々まで流れ込み、血管内に唐辛子のすさまじい効果を駆けめぐらせるのである。店のウエイターが教えてくれた名前は「首を絞める天使」だった。 翌年、またツアーでミュンヘンに戻った僕は、この忘れがたい酒をお土産にしたくて探してみた。しかし結果は不調で、どの酒屋でも、そんなもの聞いたことがない、という返事が返ってきた。ところが83年、僕はまた同じレストランに招待されたのだが、ちゃんとこの酒が出てきた。そこで一本だけ買い取ってもって帰ったると、家ではこれが大ヒットとなった。僕の住む小さな町ではクリスマスイブに、町の広場にサンタがやってくるのだが、これが毎年工夫をこらした、派手な登場の仕方をする。僕は、町中みんなが来るからという事が大きいのだが、このイベントを楽しみにしていて、みんなで震えながら日没までそこで待つのであるが、そんなとき友達に分けてやるのにこのベルクエンゲルはぴったりだった。思い切って一口すするだけで、誰でもすぐに暖かくなれたからだ。 86年、Peter Gabrielのツアーでドイツに行ったとき、プロモーターのPeter Riegerが空港で出迎えてくれて、僕に「ドイツに滞在中、何か特に欲しいものはないか」と訊いてくれた。実は欲しいものがあった。あの珍奇な酒2本ばかり手に入れられないだろうか?問題ないよ。そういって、彼はすぐ助手にその手配をさせたのだった。しかし、その後ツアーが一週間続いたが、僕が訊ねる度にその助手は、よほど珍しい酒のようで、まだみつかりません、と弁解するのだった。ドイツのツアーが終わり、ヨーロッパ各地へと移動したが、終わりの頃に偶然ドイツに戻る機会があった。もう87年に入っていた。このときは、あの幻の酒をどうしても探してほしい、と頑張ってみたが、Peter Riegerには申し訳ないが、結局彼らには見つける事が出来なかったのである。 この時のツアーは、一週間後、ギリシャで「POV」の撮影をして終了したのだが、ここでバンドを迎えてくれたのが、ミュンヘンでクリムゾンをレストランに案内してくれた、あのエリカだった。そこで僕はいままでのいきさつを彼女に話したのだった。 たった1週間後のこと、僕がニューヨークに戻ってツアーの疲れを癒していたとき、エリカから電話が入った。なにかの用事でニューヨークに来ているそうで、僕にプレゼントがあるから、どこかで夕食でもどう、と彼女は言った。そこでタクシーでウエストサイドまで行って、素敵な夕食をして、そうしてすごいプレゼントで驚かされた。僕はベルクエンゲルのボトルを2本贈られたのだった。彼女の説明によれば、この酒はもう製造されておらないが、例のメキシコ料理の店に最後の20本がキープされていたので、この酒の大ファンの為だからと、何とか言いくるめて2本だけ譲って貰ったのだそうである。素晴らしい気分に浸りながら、僕は何度もエリカにお礼を言って、そうしてその頃僕の住んでいたイーストサイドまでタクシーに乗って戻っていった。 もう夜中の1時で、タクシーが65丁目からマジソン・アベニューへ入ると、通りは殆ど無人になっていた。ところが、66丁目の角に誰か2人で話しをしてる人影が見えた。僕はちらっとそっちを眺め、それからもう一度よく見てみると、なんとその家の一人はドイツのプロモーター、Peter Riegerだった。すごい!僕は運転手に止めてくれ、と怒鳴るとベルクエンゲルのボトルを抱えてタクシーから捩り出た。故郷のドイツから遠く離れたニューヨークみたいなところで、それもこんな時刻に、知ってる人間に出会うなんて、Peterにとってはすごい驚きだっただろう。しかもベルクエンゲルまで現れるなんて!この男はいつも自分の好みの酒を抱えてニューヨークを走り回ってるんだろうか、なんて思われたかもしれない。 とにかく僕らはその場でボトルを開けて、この偶然を祝ったのだった。 その後、僕はこの貴重な酒を毎年クリスマスの時だけみんなで分け合うことにして、大事に保存してきた。いま、これを書いている時点で、まだボトルの3分の1ぐらいは残っている。このペースなら次の世紀まで保ちそうである。 スティーブ 僕にとってとても幸運だったこと。それはイーストマン音楽院時代の同級生に、後に世界最高のドラマーの一人となる打楽器の生徒がいたことだ。スティーブ・ガットである。僕はそのころクラシックの演奏家だったのだが、ジャズにも興味を持っていた。当時ロチェスターの音楽シーンには限られた数のベーシストしか居らず、すでにジャズバンドの一員として演奏旅行に出た経験もあるスティーブは、僕を地元でのギグに誘ってくれた。お陰で僕は(ジャズの)スタイルでの演奏を覚えることが出来たのだった。まもなく僕らは一日の殆どの時間を一緒に過ごすことになった。午前中は音楽史の授業(ここでは僕の方がスティーブを手助けした)。それからイーストマン吹奏楽団や学校のビッグバンドのリハーサル(当時はイーストマンでのジャズの黎明期で、偉いさんたちを必死で口説いて練習室を使わせて貰っていた。)。それから午後6時から午前1時まで、週に六日間、ナイトクラブのギグに一緒に出演していた。 スティーブのテンポの感覚は岩のように揺るぎ無くて、どんな状況でも常に正確だった。少しでも速くなったり遅くなったりというようなことは皆無だった。ニューヨークでプレイするようになって間もなく、僕はどんなに売れっ子のドラマーであっても、みんながみんなこの点に関して頼りになるとは限らないということを知った。 スティーブと一緒のクラブ・ギグは最高だった。ピアニストのギャップ・マンジョーネのトリオとして演ることが殆どで、僕はそこでギャップから貴重な体験を吸収し、スティーブの正確なビートに支えられ(そして僕がどうしても癖でクラシック調の「まんなかノリ」に戻ってしまうと、もっと前ノリのビートで弾くように急かしてくれたりしながら)ジャズのスタンダードをどんどん覚えていった。しかしスティーブの方は、僕ほどはこのギグが気に入ってはいなかった。彼は僕らの演っていたナイトクラブ調の演奏より、もっとストレートなジャスが演りたかったのだ。そして教えてやらなくてもちゃんと弾けるベーシストと演るほうが、彼にとっては楽だったろうとも思う。それでも彼は何時も僕には親切に教えてくれて、僕らはいつか親友になっていた。 クラブでの休憩時間には、彼は独特のコーヒーの飲み方を教えてくれた。大きなカップに熱いコーヒーを半分入れ、それから、慌ただしくキッチンから出入りするウエイター達の間をすり抜け、彼らの機嫌を損ねることも省みず、デザートのテーブルからバニラアイスクリームを何杯もすくってきて、カップに入れる。これで重労働後のミュージシャンにうってつけのコーヒーが出来上がる。何年か後には僕のコーヒーの好みも繊細になり、ブラックで呑むようになって、ついにはエスプレッソしか呑まなくなった。しかし今でも、旧友スティーブとレコーディングするときには、昔のあのクリーミーなコーヒーがまた呑みたくなるような気がするのだ。 ギャップはバンドのリーダーらしく、毎晩ギグには派手なスーツを着てきたものだ。ところが、彼にはちょっとした悩みがあった。バンドはトリオ編成だというのに、二人のリズムセクションがまったく釣り合わない格好をしていたのである。スティーブは上等な生地で仕立てた地味なピンストライプのスーツで、ときにはベストまで着ることもあった。僕はといえばスーツもベストも持って無くて、毎晩、とにかく暗い色のジャケットとやっぱり暗い色のズボンをはいて、それを仕事着だと呼んでいたのだ。ギャップからは何度も「バンドのメンバーらしく、似た感じのスーツを買ってくれよ」と哀願されたが、どうしようもなかった。とにかくそれぞれの好みが違いすぎたのだ。(スティーブには服装の趣味があったが、僕にはそれ自体が無かったのである)あるとき、僕らは一つの案を思いついて、二人でとにかく一番派手なネクタイを買いに行った。そしてその晩、ギャップが舞台へ上がってみると、そこには二人のミュージシャンが、黒いジャケット、黒いズボン、黒いシャツにお揃いの蛍光オレンジのネクタイを締めて、にやにや笑って待ち受けていたのである。この後、ギャップは二度とステージ衣装のことは口にしなくなってしまった。 何年も経って、軍隊を除隊した後、スティーブは当時ニューヨークでスタジオ・セッションをしていた僕に合流した。そしてその時から彼は、よりロックらしい感覚で演るための、後ノリのビートを学ぼうと苦心し始めたのである。(僕自身は彼よりは簡単にそれに適応できた。)彼は、他のもっとロックでの経歴の長いドラマー達のプレイを参考にしようとクラブを回ったりもしたが、そんな彼の姿を見ていると、普通のプレーヤーがどんな風に素晴らしいプレーヤーへと成長するものなのかを垣間見た気がする。スティーブというドラマーは、全てのスタイルをマスターしないことには許せないのである。どれか一つのジャンルで素晴らしいプレイをする、ということだけでは満足出来ないのだ。そして、自分はもうこれ以上なにもマスターすることがない、とは絶対に考えようとしない。見習うべき事だと僕は思う。 |