Stories from the book
"Beyond the Bass Clef" by Tony Levin.

翻訳:深谷源洋
以下の文章の著作権はTony Levin氏、並びにPapa Bear Recordが所有しております。この原文、翻訳文のいずれも、全部、あるいは一部を引用し、いかなる形でも出版、掲載等されることを堅くお断りいたします。
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ネズミ

Tony Levin著Beyond the Bass Clefから、ある物語。

ニューヨークのミュージシャンは参加することが好き。彼らは自分の楽器を携えてクラブに入ってゆき、演奏しないかと誘われるのを待っている。

1975年の、あの忘れられない夜、僕は素晴らしいビブラフォン奏者のMike Mainieriとデュオで演奏していた。そのレストラン-クラブは、ミュージシャンがよく参加してくることで知られていた。最初のセットの終わり近くになって、Jan Hammer がピアノを弾き、Jeremy Stieg がフルートで参加していた。ステージは小さく、デュオでちょうど良いほどの大きさだったため、非常に混みあっていた。Jeremyはステージではね回って演奏していたのだが、突然鼻をピアノにぶつけてしまった。彼はバーに引っ込んだ。 Mikeは怪我の程度を見るためにステージを降りた。すぐに他のビブラフォン奏者が聴衆の中からあらわれ、断りなくステージに上ってJanと僕が演奏している中に加わってきた - その時の曲は、"Someday My Prince Will Come"だったと思う。

その男が何も尋ねなかったので、Mikeは彼にマレットの頭が4本とも緩んでいることを彼に教えなかった。 僕たちが演奏していたら、マレットの一本の頭が残り三本とかの男を残して聴衆に向かって飛んでいった。聴衆は飛行物体に身構えた。この時点で、Janはソロをやっていたのだが、大きなネズミがキッチンからあらわれて、ゆっくりとピアノのところまで歩いてやってきてJanの正面に鎮座した。 ビブラフォン奏者はこちらに背中をむけていたのでネズミを見なかったが、Janは見た。彼は素早くソロを切り上げて、イスの上に立ち上がった。

ビブラフォンの彼はこの背中で起こっている出来事を、自分のソロの合図だと思って激しくアドリブを始めた。すぐにもう一本のマレットの頭が飛んでいった。彼は二本のマレットで変な格好でうつむいて演奏し、何とかそれ以上飛んでいかないようにしていた。Janは相変わらずイスの上に立っていた。身をかがめてマレットの頭をつかまえようとしていた聴衆はといえば、今やこの光景を楽しんでいた。彼らはまだネズミの存在に気づいてなかった。そうこうしている間に、騒動に敏感なクラブのオーナーはステージのところにあらわれて、密かに、注意を惹くことなく、ほうきの柄でネズミを殺そうとした。多分これは一番良いプランではなかったけれど、それでもまぁ一つのプランではあった。

依然我らのビブラフォンの君は演奏を続けており、彼の背後で起こっている事態に気づかなかった。さらに一本のマレットの頭を失い、彼は今や一本のマレットだけでソロを弾いていた - これは簡単な仕事ではない。 MikeはJeremyの、後に骨折していたとわかる鼻を親切に看護していた。Janはイスの頂上から安全にこの出来事を見渡していた。ウエイトレスがネズミに気づいて金切り声を上げて、バーのスツールの上によじ登って、空中から見下ろすことに参加した。 僕はこの間中ずっと心ここにあらずでベースラインを弾いていた。クラブのオーナーはほうきの柄で床を叩いてネズミを追い、パーカッションを担当していた。

ネズミ、ニューヨークのネズミは首尾よくほうきを避けたのだったが、彼の好みの楽器であるピアノの演奏が何故止まってしまったのか、困惑しているように見えた。 そして、ゲストのソリストは、運良く一本のマレットで思い切り演奏できて、この騒動が自分のソロに対する賞賛の証だ、遂にニューヨークでスターミュージシャンとなる日が来たのだと確信していた。


The Alternative Travel Agent

それはPeter Gabrielのバンドでツアーしていた時の事。サンフランシスコで3日連続の公演があった。いつもホテル代の高くつく街だったので、PeterのマネージャーのGail Colsonは街外れの、空港のそばのホテルを予約していた。これがひどく見栄えのさえないホテルだった。高速道路に面していて、窓からの眺めといえば中古車センターだけなのだ。さて僕らがチェックインしていると、Peterが電話ボックスに向かって歩いていくのが見えた。スーパーマンに変身するわけじゃない。彼は、僕らにはすでにお馴染みになっていた「オータネイティブ旅行社員」に変身したのだった。
だめよ!Gailがそう叫んで彼を引き止め、説得しようとした。何処も予約が一杯なの。ここを押さえるのだってすごく苦労したんだから。
バンドのメンバーは沈黙し、ロビーの窓から外のレンタル・ポンコツ屋を眺めていた。
「オータネイティブ旅行社員」はしつこく食い下がっていた。どうやらサンフランシスコの北の外れに、海岸沿いの場所を一件見つけたようだ。彼はGailに地図を見せながら説明した。ここよりも街に近いし、料金も安いんだよ。しかし甘い言葉は返ってこなかった。
Peterは自分の好きなようにしたらいいわ。でも残りのグループであるバンドとマネージャー達と前座のRandom Holdはここに泊まるのよ!
PeterはJerry Marottaと僕を隅の方へ引っ張っていって彼の見つけた素晴らしい宿について説明を始めた。彼には非常に説得力がある。Jerryと僕は今回も甘い言葉に乗せられて、Peterのオータネイティブ旅行団に加わることとなった。こうして他のメンバーを残して、我々3人はホテルを後にしたのだった。

曲がりくねった道を上ったり降りたり、どこまでもどこまでも僕らは走り続けた。地図の上では直ぐ近くに見えた場所が、実際に着くまでには何時間もかかった。どうやら、サンフランシスコと僕らが目指すホテルとの間には山脈が一つ横たわっていたようだ。さて、問題のホテルは?そう、そこには小屋があった。それぞれ部屋の隅に鉄製の仕切りとシャワーが付いていた。そして、どこを見ても砂まみれだった。モーテルとビーチの間を荒れ果てた州立公園が隔てていたが、そんなことはもう気にならなかった。なぜなら、たどり着いたビーチには全く人影が無く、北極圏から来るような風が吹き荒れていたからだ。そして海水は信じられないぐらい冷たかった。
僕ら三人は一番大きなバンガローに一緒に入ることにした。そうすれば少なくともこの状況を笑って過ごすことが出来るからだ。これから毎晩コンサートの後運転しなければならない、あの道のりについても。そう、なにはともあれ3日連続公演なのである。

翌晩、劇場では、僕らがどんな「ビーチ・パーティー」で盛り上がったのかを、みんなが知りたがった。本当の事なんか言える訳がない。僕らはモーテルを絶賛した。新鮮な空気。無人の砂浜。雄大な山並みが彼方に見える。(何が彼方だ!)みんな気持ちが動かされたようだったが、マネージャーのGailだけは、これでどのぐらい予算が浮いたかを聴かされてもまだ渋い顔をしていた。
翌日、バンドのキーボード・プレーヤー、Larry Fastが残りのメンバーを離れて我々に合流した。Randam Holdのメンバーも数人、同行した。僕らのささやかな隠れ家に到着した彼らは、一挙に現実を噛みしめることとなった。とにかくみんなで笑い飛ばすほかなかった。勇気をふるって凍える砂浜にチャレンジする奴までいた!その晩の公演では全員がほらを吹きまくった。素敵なビーチと遠くの山並みのポラロイド写真までねつ造された。(なにが遠いもんか。あのうっとうしい山脈を越えるため、徹夜のドライブをみんな毎日味わされていたんだ。)しかし、Gailはまだ疑っていた。
サンフランシスコ公演の最後の晩、空港のそばの高速沿いのホテルに残っていたのはGailとツアーマネージャーのJo Chesterだけだった。残りはみんなビーチにやってきて、エキサイティングな体験で盛り上がっていた。GailとJoは察していたのだろうか?現在に至るまで誰一人としてマネージャー達に真実を明かしてはいないのだが。 さて、浮いた予算を使って、はじめの三人(Peter、Jerry、Tony)は翌日のシカゴ迄の移動時に、ラスベガス経由という「オータネイティブ経路」を選んだ。その後シカゴでメンバーと合流して、ベガスでもまたどんなに盛り上がったのかを話して聴かせたが、Gailはまたもや僕らを疑っていた。というのは今度は彼女にもそうする根拠があったからだ。僕らはホテルまでのタクシー代もなく、彼女を電話に呼び出して空港まで迎えに来て貰っていたのだった。


偉大なるフレンチフライ野郎

同じツアーで一緒に旅していると、バンドのメンバーのおかしな癖に気が付くことがある。僕はJerry Marottaとは相当長い間一緒にツアーしてきたので、彼の奇癖については自分の事よりも理解してしまっている。そのなかで常に僕を悩ませてきたのは、一緒にマクドナルドへ行くと(随分何度も行ったものだが)彼は何時もラージサイズのフレンチ・フライを頼む代わりに、必ずスモールのフライを2つ頼むということであった。その方が安上がりなんだろうか?小さな紙袋に入っている方が、大きめのボール紙の入れ物に入っているより味が良いのだろうか?彼は答えなかった。彼自身、理由が分からなかったのである。それは単なる癖なのだろうが、僕にはそれが気になってしようがなかった。
僕らは何年も、スモール2つとラージ1つとの長所・短所を論争してきたが、ついにGabrielバンドの全員ではっきりと決着を付けようということになった。
そのころバンドはロンドンのTrident Studioで「Whiter Shade of Pale」のパンク・バージョンを録音していたが、スタジオの外には長い路地があって、通りを少し行ったところにはマクドナルドもあった。僕とJerryがそれぞれ、フレンチ・フライのラージ1つとスモール2つを買って戻ってくると、メンバー全員が集まってきた。最初は重さを量る案も出たが、結局最良の方法は、路地の上で一個一個のフライを順に並べていって、どちらが長い線になるかを比べることだということに落ち着いた。
全員が路地に集合した。唯一、Sid McGinnisだけが電卓を持っていたので、彼が差額の計算をして結果を調整することになった。Larry Fastは見物を決め込んでいた。そして僕とJerryは膝で這う格好になってフレンチフライを一つ一つ並べ始めた。フライの列が2列、どんどん延びて路地を飛び出し歩道へと続き始めると、その辺をねぐらにする浮浪者が2人、すごく興味深そうに視線を向けた。
結論:1フライ長差でスモール2つの勝利。長年繰り広げられた、これに関する賭け、論争、そして個人的な嗜好など、一切の影響を超越した部分で、Jerryは、無意識のうちにどちらが得な買い物かを嗅ぎわけていたのだった。


血塗れのクリスマス

クリスマスまであと一週間。ピーター・ガブリエルのツアーもロンドンのHammersmith Odeonでの2日間の公演を残すのみとなっていた。その初日の公演も順調に終わりに近づき、「On the Air」というアンコール曲の最後の部分で、僕は何かが頭にぶつかったのを感じた。

ところで、ヨーロッパでのツアーでは、たとえショウの最中にUFOが何機かステージに降りてきたって不思議ではない。というのは、コンサートに食べ物を持ち込む伝統というのがあるようで、もし持ってきたリンゴが熟しきっていなかったら、丁重にバンドに食らわせて進ぜよう、っていうのも当然のようだ。それから、客席の前列で、なにがあっても座らないって頑張ってる連中に対して、他の客席の不満が高まるっていうのもよく見かける。例えばフランスではどのコンサートでも、最初の数曲は「Asseyez vous!」(訳注:すわれ!の意)の叫び声で飲み込まれてしまう。そして前列に向かってビンが投げられたりするわけだが、これってステージに向かって投げる事と結局同じ事なんじゃないだろうか?

しかし今回はロンドンでの話だ。ここでは普段の話し声より2デシベル上の叫び声でも、とんでもないことだし、実際にステージに向かってミサイルを撃つなんて事は、例えば、約束より早く到着するのと同じぐらい卑怯な行為とされている。(唯一の例外はパンクのクラブだ。そこは予定より早く到着してもいいし、自分の持ち物を全部バンドに投げつけて、そのうえ唾まで吐きかけても許される。)
僕はその時丁度、ピーターや観客には背を向けて、ドラマーのジェリー・マロッタの前に立って彼とグルーブしていたが、突然、大きな岩のような物が僕の後頭部を直撃したように感じた。そして、その瞬間のジェリーの表情から何かとんでもない事が起きたのを悟った。直ぐに気分が悪くなって、僕のベースに血が流れ落ちるのを見て、ステージから降りた・・・どうせ曲も残り数小節だったから。怪我は、案外ひどくなかった。まともに殴られたように感じたけれど、どうやら擦ってだけだったようだ。バンドのメンバーがみんなステージを降り、心配して僕の回りに集まってきて、ようやく何が当たったのかが明らかにされた。

その時のツアーの半ばから、ピーターはアンコールの時になにか物をぶっつぶすことに熱中しだし、例えば身近にあるフット・ライトを踏みつぶしたりした。派手な効果があったけど、次の晩の公演までに修理をさせられる照明の係りの者には不評だった。それで、係りの連中はピーターのすぐ前に、偽物のライトを用意するようになったが、その目論見は甘かった。ピーターは今度は頭上のライトに目を付け、それを激しく揺すった後、マイクのスタンドで殴り掛かったのだった。照明係はぶつぶつ文句を言っていたけれど、観客には大受けだった。そして問題の晩も、彼がワイルドにマイクスタンドを掴み、ねじれた表情でそれを振り上げ、ピアノに向かって不気味に近づいていったとき、観客は大歓声を上げていた。問題はこのマイクスタンドがグースネックと呼ばれる、真ん中で自由に曲げられるタイプの物だったということだ。
その時僕は、嗚呼、こんなことには全く気付かず、後ろを向いてジェリーとの音楽的会話に没頭していた。しかし、マイクスタンドが振り下ろされ、その途端、真ん中で曲がってしまい、その重い根もとの部分が僕の頭を擦めたときにやっと気が付いた、というわけである。観客はピーターがわざとやったんだと思って、さらに歓声を張り上げた。すごい演出だ!全部何かのトリックで、実際には大丈夫なんだと観客は思ったんだろう、と信じることで、僕は自分を慰めている。もしあの声援が本気で僕を殺せ、という叫びだったらちょっとたまらないから。
ジェリーは当然、以上の全てを見ていた。あの時の彼の表情は、とても上手くは表現出来ないが、とにかく二度と見たくない形相をしていた。

あの時の傷はもう残っていない。でも僕のベース(昔からのFender Precisionベース)についた血痕は意地でも残して置くつもりだ。誰でもみんな、自分のベースに長年使い込んだ徴しを付けたいものなのだ。僕のにはそれがある。
ピーターはひどく申し訳なく思ったらしく、その後ステージでは一切物を壊さないようになった。
それでも僕は、未だに後ろは向かないようにしている。


Aha, The Attack of The Green Slime Monster

Aha, The Attack of The Green Slime Monster、(嗚呼、緑色粘液怪獣の攻撃)これはあるバンドの名前だ。1970年代、最も派手に失敗したバンドの一つである。僕らのリーダー、Don Prestonはこの少し前にThe Mother of Invention(訳注:フランク・ザッパのバンド)でキーボードを務めたばかりで、少しばかり猟奇趣味に走る傾向があった。彼は普通のキーボードの他に、テレミンの様な音色を出す、ボタンのいっぱい付いた箱も持っていた。むろん当時からシンセサイザーという言葉はあったけれど、実際に音を聞いた人間は滅多にいなかったし、いずれにせよDonのやつは他に2つと無い代物だったのだ。接続コードがごちゃごちゃと絡まったその箱には、真っ赤な目立つボタンが一つあって、それを押すと、箱の上から突き出た2本の棒の間に、まるでフランケンシュタインを生き返らせる時のような、電気の火花が弧を描いて走るのだった。さらに、目玉のとれたゴム人形の頭の部分に、眩しい電球を仕込んだランプがせり上がってくるのだが、その頭には半透明で緑色に輝く張り形が取り付けてあった。非常に印象的な楽器である。
この呪われたバンドの最初で最後の公演はサウス・フィラデルフィアでの単発公演であった。Donの才能はビジネス方面には発揮されないようで、この公演の宣伝は全く行われていなかった。実際、どこを探しても公演についての情報は見つからなかった。なんと会場である薄汚い劇場の看板にさえ載っていなかったのである。観客の入りが酷かったのも当然の事だと言わねばならない。その晩、何を思ったのか知らないが、迷い込んだ客が3人いた。そして彼らは生涯忘れることの出来ない出来事を体験することになったのである。
ギター、ドラム、ベース、キーボードという編成に加えて、バンドには前衛ダンスの小グループが付いていた。彼らはMeredhith Monkの振り付けの下、全身を赤く塗り、僕らの演奏に合わせてフリーに身体をくねらせていた*。彼らの精神が人に感染するのか、実際、ある盛り上がった部分では、演奏中にドラマーが突然シンバルをはずしてステージに投げつけ、さらに自分でそれを拾いに行きドラムに向かって投げ返す、という事が起きた。
その後、Donが電子音楽のテープを流し、彼が「聴衆との対峙」と呼ぶ行為に及んだ時、公演はクライマックスを迎えた。これはDonがステージの一番前にあぐらをかいて座り、下から色とりどりの火薬の火花で不気味に顔を照らされながら、観客席を睨み付ける、というもので、同時にとんでもなくサイケデリックな映画が観客に向けて投影されるのであった。この映画の効果、赤く塗られた肉体、前衛音楽、そしてDonの威圧するような視線。3人の観客の哀れな魂はこれに耐えきれるはずもなかった。彼らはそれぞれ別々の出口からこそこそと立ち去っていった。
このようにしてAha, the Attack of The Green Slime Monsterは、その短くも鮮やかな生涯を終えた。もし別の状況で、例えばもっと大勢の観客の前であったならば、もっと良い反応が得られたような気もするし、確かなことは言えないが、The Attackは今でも残っていたかも知れない。

*ダンサーの中の一人、Danny DeVitoはその後俳優・監督としてこの時の公演とは比べ物にならぬ程の成功を収めている。


首絞め天使

81年のクリムゾンのツアーで、僕はベルクエンゲルに出会った。唐辛子風味のシュナップスで、地球上で一番強い酒である。バージンレコード・ドイツ支社から派遣されたエリカに連れられて、ミュンヘンで入ったメキシコ料理の店だった。(なんでまたミュンヘンまで来てメキシカンなんだろう!)この酒は体の隅々まで流れ込み、血管内に唐辛子のすさまじい効果を駆けめぐらせるのである。店のウエイターが教えてくれた名前は「首を絞める天使」だった。

翌年、またツアーでミュンヘンに戻った僕は、この忘れがたい酒をお土産にしたくて探してみた。しかし結果は不調で、どの酒屋でも、そんなもの聞いたことがない、という返事が返ってきた。ところが83年、僕はまた同じレストランに招待されたのだが、ちゃんとこの酒が出てきた。そこで一本だけ買い取ってもって帰ったると、家ではこれが大ヒットとなった。僕の住む小さな町ではクリスマスイブに、町の広場にサンタがやってくるのだが、これが毎年工夫をこらした、派手な登場の仕方をする。僕は、町中みんなが来るからという事が大きいのだが、このイベントを楽しみにしていて、みんなで震えながら日没までそこで待つのであるが、そんなとき友達に分けてやるのにこのベルクエンゲルはぴったりだった。思い切って一口すするだけで、誰でもすぐに暖かくなれたからだ。

86年、Peter Gabrielのツアーでドイツに行ったとき、プロモーターのPeter Riegerが空港で出迎えてくれて、僕に「ドイツに滞在中、何か特に欲しいものはないか」と訊いてくれた。実は欲しいものがあった。あの珍奇な酒2本ばかり手に入れられないだろうか?問題ないよ。そういって、彼はすぐ助手にその手配をさせたのだった。しかし、その後ツアーが一週間続いたが、僕が訊ねる度にその助手は、よほど珍しい酒のようで、まだみつかりません、と弁解するのだった。ドイツのツアーが終わり、ヨーロッパ各地へと移動したが、終わりの頃に偶然ドイツに戻る機会があった。もう87年に入っていた。このときは、あの幻の酒をどうしても探してほしい、と頑張ってみたが、Peter Riegerには申し訳ないが、結局彼らには見つける事が出来なかったのである。

この時のツアーは、一週間後、ギリシャで「POV」の撮影をして終了したのだが、ここでバンドを迎えてくれたのが、ミュンヘンでクリムゾンをレストランに案内してくれた、あのエリカだった。そこで僕はいままでのいきさつを彼女に話したのだった。

たった1週間後のこと、僕がニューヨークに戻ってツアーの疲れを癒していたとき、エリカから電話が入った。なにかの用事でニューヨークに来ているそうで、僕にプレゼントがあるから、どこかで夕食でもどう、と彼女は言った。そこでタクシーでウエストサイドまで行って、素敵な夕食をして、そうしてすごいプレゼントで驚かされた。僕はベルクエンゲルのボトルを2本贈られたのだった。彼女の説明によれば、この酒はもう製造されておらないが、例のメキシコ料理の店に最後の20本がキープされていたので、この酒の大ファンの為だからと、何とか言いくるめて2本だけ譲って貰ったのだそうである。素晴らしい気分に浸りながら、僕は何度もエリカにお礼を言って、そうしてその頃僕の住んでいたイーストサイドまでタクシーに乗って戻っていった。

もう夜中の1時で、タクシーが65丁目からマジソン・アベニューへ入ると、通りは殆ど無人になっていた。ところが、66丁目の角に誰か2人で話しをしてる人影が見えた。僕はちらっとそっちを眺め、それからもう一度よく見てみると、なんとその家の一人はドイツのプロモーター、Peter Riegerだった。すごい!僕は運転手に止めてくれ、と怒鳴るとベルクエンゲルのボトルを抱えてタクシーから捩り出た。故郷のドイツから遠く離れたニューヨークみたいなところで、それもこんな時刻に、知ってる人間に出会うなんて、Peterにとってはすごい驚きだっただろう。しかもベルクエンゲルまで現れるなんて!この男はいつも自分の好みの酒を抱えてニューヨークを走り回ってるんだろうか、なんて思われたかもしれない。

とにかく僕らはその場でボトルを開けて、この偶然を祝ったのだった。

その後、僕はこの貴重な酒を毎年クリスマスの時だけみんなで分け合うことにして、大事に保存してきた。いま、これを書いている時点で、まだボトルの3分の1ぐらいは残っている。このペースなら次の世紀まで保ちそうである。



スティーブ

僕にとってとても幸運だったこと。それはイーストマン音楽院時代の同級生に、後に世界最高のドラマーの一人となる打楽器の生徒がいたことだ。スティーブ・ガットである。僕はそのころクラシックの演奏家だったのだが、ジャズにも興味を持っていた。当時ロチェスターの音楽シーンには限られた数のベーシストしか居らず、すでにジャズバンドの一員として演奏旅行に出た経験もあるスティーブは、僕を地元でのギグに誘ってくれた。お陰で僕は(ジャズの)スタイルでの演奏を覚えることが出来たのだった。まもなく僕らは一日の殆どの時間を一緒に過ごすことになった。午前中は音楽史の授業(ここでは僕の方がスティーブを手助けした)。それからイーストマン吹奏楽団や学校のビッグバンドのリハーサル(当時はイーストマンでのジャズの黎明期で、偉いさんたちを必死で口説いて練習室を使わせて貰っていた。)。それから午後6時から午前1時まで、週に六日間、ナイトクラブのギグに一緒に出演していた。

スティーブのテンポの感覚は岩のように揺るぎ無くて、どんな状況でも常に正確だった。少しでも速くなったり遅くなったりというようなことは皆無だった。ニューヨークでプレイするようになって間もなく、僕はどんなに売れっ子のドラマーであっても、みんながみんなこの点に関して頼りになるとは限らないということを知った。 スティーブと一緒のクラブ・ギグは最高だった。ピアニストのギャップ・マンジョーネのトリオとして演ることが殆どで、僕はそこでギャップから貴重な体験を吸収し、スティーブの正確なビートに支えられ(そして僕がどうしても癖でクラシック調の「まんなかノリ」に戻ってしまうと、もっと前ノリのビートで弾くように急かしてくれたりしながら)ジャズのスタンダードをどんどん覚えていった。しかしスティーブの方は、僕ほどはこのギグが気に入ってはいなかった。彼は僕らの演っていたナイトクラブ調の演奏より、もっとストレートなジャスが演りたかったのだ。そして教えてやらなくてもちゃんと弾けるベーシストと演るほうが、彼にとっては楽だったろうとも思う。それでも彼は何時も僕には親切に教えてくれて、僕らはいつか親友になっていた。

クラブでの休憩時間には、彼は独特のコーヒーの飲み方を教えてくれた。大きなカップに熱いコーヒーを半分入れ、それから、慌ただしくキッチンから出入りするウエイター達の間をすり抜け、彼らの機嫌を損ねることも省みず、デザートのテーブルからバニラアイスクリームを何杯もすくってきて、カップに入れる。これで重労働後のミュージシャンにうってつけのコーヒーが出来上がる。何年か後には僕のコーヒーの好みも繊細になり、ブラックで呑むようになって、ついにはエスプレッソしか呑まなくなった。しかし今でも、旧友スティーブとレコーディングするときには、昔のあのクリーミーなコーヒーがまた呑みたくなるような気がするのだ。

ギャップはバンドのリーダーらしく、毎晩ギグには派手なスーツを着てきたものだ。ところが、彼にはちょっとした悩みがあった。バンドはトリオ編成だというのに、二人のリズムセクションがまったく釣り合わない格好をしていたのである。スティーブは上等な生地で仕立てた地味なピンストライプのスーツで、ときにはベストまで着ることもあった。僕はといえばスーツもベストも持って無くて、毎晩、とにかく暗い色のジャケットとやっぱり暗い色のズボンをはいて、それを仕事着だと呼んでいたのだ。ギャップからは何度も「バンドのメンバーらしく、似た感じのスーツを買ってくれよ」と哀願されたが、どうしようもなかった。とにかくそれぞれの好みが違いすぎたのだ。(スティーブには服装の趣味があったが、僕にはそれ自体が無かったのである)あるとき、僕らは一つの案を思いついて、二人でとにかく一番派手なネクタイを買いに行った。そしてその晩、ギャップが舞台へ上がってみると、そこには二人のミュージシャンが、黒いジャケット、黒いズボン、黒いシャツにお揃いの蛍光オレンジのネクタイを締めて、にやにや笑って待ち受けていたのである。この後、ギャップは二度とステージ衣装のことは口にしなくなってしまった。

何年も経って、軍隊を除隊した後、スティーブは当時ニューヨークでスタジオ・セッションをしていた僕に合流した。そしてその時から彼は、よりロックらしい感覚で演るための、後ノリのビートを学ぼうと苦心し始めたのである。(僕自身は彼よりは簡単にそれに適応できた。)彼は、他のもっとロックでの経歴の長いドラマー達のプレイを参考にしようとクラブを回ったりもしたが、そんな彼の姿を見ていると、普通のプレーヤーがどんな風に素晴らしいプレーヤーへと成長するものなのかを垣間見た気がする。スティーブというドラマーは、全てのスタイルをマスターしないことには許せないのである。どれか一つのジャンルで素晴らしいプレイをする、ということだけでは満足出来ないのだ。そして、自分はもうこれ以上なにもマスターすることがない、とは絶対に考えようとしない。見習うべき事だと僕は思う。

To ROAD Diary 日本語版