それから彼はニューヨークのロチェスターにあるイーストマン音楽学校に入学し、
ロチェスター交響楽団で演奏するようになった。この学校に現在ドラマーとして有
名な Steve Gadd がおり、彼の導きによりTonyはジャズとロックにおいて高度な演
奏を身に付けるようになった。彼は自分の持っていたアンペグ・ベビーベースとそ
の当時既に古かったフェンダーのプレシジョンベースを交換し、これは長い間彼の
唯一の楽器だった。
1970年に Tony はニューヨーク市へ
引っ越し、The Mothers of Invention にいた
Don Preston と Aha, the Attack of the Green Beast というバンドに参加した。
その直後から彼はセッションミュージシャンとして活動を始め、70年代を通じて多
くのアルバムでベースを弾くようになった。
70年代後期になって、Tony はさらに
ライブでの活動を求めてPeter Gabrielのバンドに参加。 Gabriel との出会いは、
プロデューサーの Boz Ezrin(Tony は Alice
Cooper のアルバム Welcome to Nightmare、Lou Reed のアルバム Berlin に彼の
プロデュースの元で参加)を通じてであった。以降 Tony は Peter Gabriel とロード
とスタジオの両方で参加するようになった。 Gabriel の最初のアルバムにおいて、
Tony はベースと同じほどチューバを演奏し、また短い曲のバーバーショップ・カル
テットバージョンを監督した。
Gabriel との活動初期は、Tonyにと
ってチャップマン・スティックの奏法を確立
する時期であった。更に Gabriel のアルバム So のなかの Big Time は、折った
ドラムスティックでベースの弦を叩いて演奏する、 Funk Fingers を考案するきっか
けを与えた。Tony は Gabriel のアイデアを借りて思い立ち、当時彼のテックだった
Andy Moore がこれを使えるものに仕立てあげた。
1978年にTonyは彼の旧知の Steve Gadd や、
やはり古い友人の Mike Mainieri、
Warren Bernhardt とのバンドである L’Image に参加するためニューヨーク州のウッ
ドストックに引っ越した。このバンドでの音楽は彼にとって大変意味深いものであっ
たため、1年ほどしてバンドが解散してからも Tony はウッドストックに留まり、
現在までここに住んでいる。
Peter Gabriel のファーストアルバムで
Tony は Robert Fripp に出会い、1980年
には彼のソロアルバム、Exposure に参加、さらに80年代の King Crimson再結成のメ
ンバーとなった。このバンドは現在6人編成となり強化されている。
またこの時期1年を通じて Tony は、
以下のほんのわずかのアーティストとツアー
を行っている: Paul Simon (1980年のフィルム、
”One Trick Pony”で二人を見ることができる)、Gary Burton, James Taylor,
Herbie Mann, Goro Noguchi、Judy Collins, Joe Yamanaka, Carly
Simon, Peter Frampton, Anderson/Bruford/Wakeman/Howe, Tim Finn, Richie
Samborra, そして Claudio Baglioni.
1984年にTony は”Road Photos”を出版。
彼がCrimson, Gabriel, Simon などと
旅をしている時に撮ったモノクロの写真集である。Tony の兄のPete はGil Evance との仕事で知られるニューヨークの
キーボード奏者でライターである。70年代に遡ってTony とPete は Steve Gadd との
コラボレートでThe Clams というコメディーバンドをやった。Tony は今もこのバンド
の産物をいつか世に出すつもりで温めている。
さて現在、Tony はKing Crimson での
レコーディングとツアーを続けており、この
夏にはロードも行われている。そして他のアーティストとも随時活動し、また彼の
King Crimson の撮影記録も将来の出版に向けて更新され続けている。また彼自身の
ベース奏法についての著作も書き上げたところである。